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G3は今日も元気

典型的な団塊オジさんの自己満足的日記・・早期退職して悠々自適なのだ・・内容は・音楽雑論、マンドリン、二胡、百名山行、花と菜園、旅あるき、原子力と放射線、別荘暮らし、熊本で介護、猫の石松など・<府中市在住> リンクフリー

台湾を調べる

いろんな縁があって 来月 台湾へ演奏旅行に行くことになった

埔里市長 自ら歓迎してくれるそうで 日本台湾親善使節 の色合いも強いようだ

日程も寸刻み 5回の演奏のほか 親睦イベント 観光案内など 7日間のスケジュールが 目一杯

平均年齢が還暦を越えている14人の老男熟女が 日本の真夏以上の異国の地で はたして大丈夫?

ま どういう結果になろうとも ブログ素材としては事かかないだろう 5月後半のブログを お楽しみに

それはそうとして せっかく台湾に行くのなら 調べられるところはいろいろ知っておこう

台湾は 大学の卒業旅行(その時は卒業できるか未定の状態)で リュック担いで一週間ほど放浪した

いろんな所を見ていろんな人に会ったが 当地の歴史など 知っておけばよかったこと が多々あった

今は インターネットで 楽しく調べられる 調べてるうちに横道に立ち寄ることも多いが

これも含めて 当分の間 このシリーズを執筆する

請う ご期待





















中山 ?

台湾の町では "中山" の地名がよく出てくる 中山路 中山公園 中山堂 など

99中山地名01

大魯閣渓谷のある花蓮市でも 台中市でもしかり 台北市や中国本土の上海 南京でも 数多く見かける

99中山地名02

調べてみると 孫文 の字(あざな)から由来していることがわかった

孫文は 清朝が滅ぶ寸前 中華民国の初代臨時総統であり 近代中国の創始者として 台湾のみならず 本土の中華人民共和国でも"国父" と呼ばれ 慕われている

孫文は 孫 が姓 文 が名 である 字(あざな)を 中山 または 逸仙 と称した

字(あざな)とは 中国で男子が成人した後 実名の他に付ける名前のことである

実名を知られることを忌む風習のある中国では 字(あざな)をつけるのは普通のことで 字(あざな)があると実名はあまり呼ばれないことが多い

さらに調べると 革命家の孫文は 日本に亡命していた時 この字(あざな)を決めたようだ
彼は 日本では 中山 樵 という偽名を使っていた

それで なぜ 中山 ? 

これを調べだすと どうしてもまた幕末から明治維新の日本に 立ち入らなくては ならない

次回以降を お楽しみに ・・




















孝明天皇

孫文の字(あざな)が なぜ (孫) 中山 なのか?  説明するのに どうしても避けて通れないのが この人

01孝明天皇01   01孝明天皇02

孝明天皇は 江戸時代末期の天皇 以前 このブログに たびたび登場した 

NHKの"篤姫" では 妹の和宮に 「日本のため 徳川へ お嫁に 行きなはれ・・ 」 と言った
笙 演奏家の東儀秀樹がぴったりの役柄 但し孝明天皇が 笙を吹けたかどうか資料に見当たらない

孝明天皇は1831年生まれ 幼い頃から学問が好きで即位後 学習院の創設を勅旨している
しかし時代は激動の期 朝廷の政治的地位が向上し この中でおおいに政治的手腕を発揮した

考え方は徹底的な攘夷派 鎖国政策の幕府を助けるために公武合体を推進したり 開国派の長州を征伐指令したり 甥の有栖川宮タル人親王や 実権を握っていた岩倉具視とも 徹底的に対立した

朝廷の権力により これらの反対派勢力を押さえつけていたものの 時代の流れは 開国へ 薩摩も離反するようになり 追放された公家の復帰要求(廷臣二十二卿列参事件)など しだいに実権を奪われていった

義弟の徳川家茂が死ぬと あとを追うように 35歳で崩御

正妃との間に2人の子供を設けたがいずれも皇女 当時の組織構成?としては 5人の典侍がいたが
その中の 中山慶子(なかやまよしこ) との間に初めて皇子ができ 後の明治天皇となった

ここで 初めて 中山 と言う姓が出てくるが 

孫文の話に戻る前に ・・  さらに寄り道

















典侍

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典侍 と書いて 正しくは "ないしのすけ" と読むそうだ 
ただし "てんじ"と呼んでも間違いではないと言うことで 漢字検定受けようとする人は一安心

典侍 とは宮中に勤める女官の最高位 律令政治のころから その役職は あった
仕事は 天皇の日常の身の周りのお世話という秘書的な仕事から 寵愛を受けて側室となり皇子女を設ける大事な役割も 負っていた

典侍と同様に 江戸幕府では 大奥 という組織があった 徳川将軍は 形を整えることを重んじ 正妻としては 常に 皇族 公家から迎え そして 現実的に 寵愛し 跡継ぎを生むのは 大奥の競争原理の働く才色兼備の女 から選ぶのが 普通であったらしい 数少ない武家出身の篤姫も将軍輿入れの前には 形式的に公家の養子になっている

当然 朝廷でも 子孫を残すことは第一の仕事 大奥ほど人数は居なかったみたいだが 典侍は しごく自然な組織構成 これまでの歴史を見ても 実際 ほとんどの天皇は 正妃ではなく 典侍との間の子であるようだ


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大奥でもそうであったが 往々にして 典侍が朝廷の地位を傘に政治に口を出し 絶大な権力を振るうこともあった 徳川の大政奉還とともに大奥は廃止されたが 宮中では 明治維新の時 少し改革されたものの 制度としては 裕仁皇太子(後の昭和天皇)が改革するまで続いていた

天皇がそうであれば 有力な人物は当然 側室 二号を持つ つい最近まで 子孫を残すためには 男の不貞は当然!と 許される状況だったのだ  陣内君!勇気を持ちなさい!

で 話は戻るが そのころの孝明天皇には 正妃のほか 寵愛している5人の典侍がいた

坊城伸子 中山慶子 堀河紀子 今城重子 今城尚子

この中で中山慶子(なかやまよしこ)のみ皇子が誕生し 後の明治天皇となった
また堀河紀子(ほりかわのりこ)も典侍の一人だが この人が後に注目を浴びることになる

それは ・・ 次回
















歴史ミステリー

孝明天皇は35歳の若さで天然痘により崩御した というのが正統な史実である

あまりに早い崩御と 時代背景とのタイミングから 当然 孝明天皇暗殺説 が巻き起こっている

暗殺説の理由

・当時の医師の記録によれば 天然痘にかかったのは確かだが 容態がほとんど回復した時点で 薬物中毒の症状が現れ 突然死亡した表現がある

・熱心な攘夷(外国排斥)派の孝明天皇は 宮中でも開国派の岩倉具視らと対立し 彼を蟄居謹慎させていた 薩長も諸外国も含め 開国の抵抗勢力のドンは孝明天皇である との認識が広まっていた

・当時の施薬は 医師が薬を準備し 天皇に飲ませる時は 典侍が行う 従って 岩倉具視の義妹でもある 典侍の堀河紀子が毒を盛ったとしたら 手段としても容易であり 動議も十分成り立つ

・堀河紀子は 口封じのためか 後になって暗殺されている

もちろん いずれも決定的でないため 史実どおり 天然痘が悪化して崩御されたのかもしれない

遺骨を掘り出して毒薬(ヒ素)が検出されれば証明されるかもしれないが 稜の発掘は現在認められていない 歴史的興味のために 天皇家のプライバシーに 立ち入る必要もないと思うが

NHK篤姫で 岩倉具視を演じたのは 片岡鶴太郎 あのズルそうなイヤミ演技から 察するに

家茂も孝明天皇も どうも 岩倉具視に毒殺された可能性が ありそうな・・

もちろん鶴太郎が悪人と言ってるのではなく NHKの時代考証係りがね ・・

















明治天皇は?

孝明天皇が毒殺されたか?というのは いまだにミステリーだが 実は明治天皇が二人いた という説が 現代においても まことしやかに 囁かれている

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そのスジ書きとは・・

孝明天皇の典侍 中山慶子が生んだ皇子は 5歳まで中山家で育てられたが 他に皇子が居なかったため その後 睦仁親王として跡継ぎになった

孝明天皇が崩御し 明治天皇として即位する時 何者かが画策して 当時 木戸孝允のもとにいた 南朝の流れをくむと自称する 大室寅之祐 (おおむろとらのすけ) を新しい天皇にすりかえた

睦仁親王は病死したか暗殺されたか あるいは即位後追放された


その理由とは・・

孝明天皇が攘夷派だったので周囲から反感をかっていたが 息子も父の方針を継承すると明言していた

長州の騎兵隊に南朝の末裔がいる ということで 南朝の再興を望む西郷隆盛も 寅之祐 をじきじきに世話をし 気をかけていた

睦仁親王は 愚鈍で女々しく 天皇としての裁量が不足していた


その手段とは・・

中山家当主の中山忠能は 岩倉具視と通じていた 睦仁が 幼くして(たぶん)亡くなったので 天皇の生母家の栄誉をそのままに 開国派に都合の良い天皇の擁立に 協力した

朝廷側は 鳥羽伏見の戦いなどの際 居場所を移動したり 宮中の女官削減などで幼い頃の睦仁親王を知ってる人を追放した すりかわりに気付く人はほとんどいなかった

明治天皇は写真きらいということで 幼い頃と比較する写真を取らせなかった 崇拝用に国民に配ったのも キヨソネによる肖像画であった


真相かもの理由とは・・

睦仁親王が亡くなったとしたら 天皇の直系の跡継ぎが居ない これは一大事 そして当時の薩長の実力者たち全ては 開国派の天皇を望んでいた 南朝の流れを汲む天皇家の再興を望む人も少なからず居た すなはち すり替わったとしても 喜ぶ人は居れ 誰も困る人は 居なかった 

明治天皇の正室は 昭憲皇太后と呼ばれている 本来なら昭憲皇后だが 宮内庁の皇統譜は訂正されていない

前半の睦仁/明治天皇の正室が昭憲皇太后であり すりかわった明治天皇の正室(典侍の柳原愛子)が皇后である と仮定すれば 宮内庁の論理も成り立つ   大正天皇の生母が 柳原愛子であるというのは 事実である

明治天皇は 体格頑健で天然痘の跡アザもない しかも左利きである 幼い頃の睦仁親王の描写とは まるで異なる



これらの憶測記事は インターネットに数限りなくある 参考になるのは

 「大室寅之祐→明治天皇 考 」
 http://www.gameou.com/~rendaico/mikiron/nakayamamiki kenkyu_40_1_meigitennoco.htm

いろいろ読むと なるほど真実かも と思うが

だから 史実を書き直せ とか 途切れた今の天皇家は廃絶すべき とか 大騒ぎするつもりは 全くない

今の天皇家は 一生懸命国民のために 尽くしておられる 変わらず ずっと 敬いたい

で その 中山家 の話だが ・・・















中山家

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中山家は藤原氏の流れをくむ公家で 江戸末期から明治にかけて日本の歴史に 少なからぬ影響を及ぼした

24代当主 中山忠能(なかやなただやす)[1808-1888] は ペリー来航時の権大納言 孝明天皇の意に沿って 幕府の米との通商条約に徹底的に反対した

その後 和宮嫁下の御用掛となり江戸まで随行したが 当時の攘夷過激派から非難を受け 一時職を辞した

その間 長州寄りの意見を支持したため 孝明天皇より 処罰されたが 天皇の崩御で復帰し 岩倉具視らとともに明治政府の重鎮として活躍した

その娘 中山慶子(なかやまよしこ)は 17歳の時 孝明天皇の典侍となり 皇子(後の明治天皇)を産む

その後 遷都に伴い 東京へ移り 嘉仁親王(後の大正天皇)の養育掛など 要職を歴任し 女性として最高の 従一位を授けられた

明治天皇の母であり祖父であることから 当然 父娘とも 明治政府では厚遇された

仮に明治天皇がすりかわったとしても 国母の名誉があり 真実を知っているのは おそらく二人だけだったろうから これらの史実に不自然な点はない


ところで 中山家には もうひとり 物議をかもした人物がいた

それは ・・




 











天誅組の変

中山忠能の七男に 中山忠光(なかやまただみつ) がいた 

彼は19歳より宮廷に仕えていたが 父の影響か 熱心な攘夷推進者であり 孝明天皇が家茂に攘夷を命令したのになかなか実行しないことに業を煮やし 官位を返上して長州の下関戦争(外国艦船攻め)を手伝ったりしていた

これに失敗して謹慎されるが 孝明天皇が大和の国を朝征される との話を聞き 土佐の 吉村寅太郎ら とともに 先鋒で大和にて挙兵すべく 画策した


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1863年8月 天誅組(てんちゅうぐみ)と名付けた尊皇攘夷派の集団は 船で堺へ上陸し 忠光が持参した菊の紋章を盾に 付近の藩の恭順を得 大和の国に入り 幕府の代官所を襲撃し さらに反抗した高取城を攻めた

天誅組は このころ十津川郷士から徴募し1000人を超える兵力で意気揚々であった


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しかし その時 京では 会津 薩摩の画策により 宮中の攘夷派が一掃され(八月十八日の政変) 実権は佐幕派に移っていた

大和朝征は中止となり 幕府 朝廷双方より ならず者 天誅組 討伐 の令が 発せられた

もともと 天誅組の兵は 無理に集められた烏合の衆で 200人の守備隊の高取城も落とすことができず 幕府の討伐軍に対し 連戦連敗となり 旗揚げ後一ヶ月で 全滅した

主将の中山忠光のみ かろうじて逃げ延び 長州藩にかくまわれたが その後 長州の俗論派により 暗殺された


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天誅組の変は 後ろ盾を外されて失敗に終わったが 尊王攘夷派による始めての武力蜂起 ということで 明治維新への胎動であった との評価もある

朝廷と幕府双方の敵となった中山忠光の存在にもかかわらず 中山家がその後 繁栄したのは 皇子を産んだ 姉 中山慶子と 明治政府でその手腕を発揮した 中山忠能 の力が大きい

なお 中山忠光は 暗殺される直前 妾との間に娘を儲けているが この娘は 中山家で大事に育てられ 公家の嵯峨家の嫁となった

そして そこでの娘が 後に 愛新覚羅フ傑 の妻となる 嵯峨浩(さがひろ) である

さらに 寄り道したくなったが ・・ 台湾へ戻らねば
















孫中山

明治天皇を輩出した 中山家は 歴史を持つ公家であり 屋敷は京都の八瀬 にあった

1870年の遷都により 東京へ移るが 東京での屋敷は 現在の日比谷公園近くにあったようだ


天誅組の忠光は1864年暗殺され 忠能は1888年に亡くなっている 中山慶子は 1907年に南青山の屋敷で亡くなったという

一方 孫文は 初めて日本に亡命してきたのが 1895年 最後に日本を発ったのが 1924年

この期間に 孫文と中山家のあいだに何か関係があったのか ・・ ?


いろいろ調べたが 孫文が中山家の人と話したとか 天誅組に共感したとか 事実はない

後日の推測だが 孫文が日比谷公園近くを通った時 中山家の表札を見かけ なんとなく気に入って自分の字(あざな)にしよう と決めたようだ


今となっては 中国 台湾 どこにでも "中山 " の地名が溢れているが その地名のルーツは まさに ここにあったのだ

中国の人は どこまで知っているのだろうか
 


















孫文 生い立ち

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中国革命の父 孫文 は 1866年 広東省香山県 (現 中山市) の農家に生まれた
字(あざな) を 孫 中山 または 孫 逸仙 という

13歳の時 ハワイに居た兄を頼り キリスト教系学校に通う ここで西洋文明 西洋文化に触れる
その後 香港で医学を学び マカオで医師を開業していた

このころから 堕落した清朝を倒す必要を感じ 三民主義を掲げ 1894年 興中会 を組織 広州で蜂起したが 事前に情報が漏れ 失敗 1985年 日本に逃げ延び その後 アメリカ イギリス を遊説し 世界中に援助を要請した

1905年 再び日本に戻り 興中会を発展させた 中国革命同盟会 を結成 本格的な活動を開始した

その後 十回にわたり各地で武装蜂起を指示したが ことごとく失敗

1912年の辛亥革命で清朝が滅亡した後 請われて中華民国の初代臨時総統に就任 しかし すぐに追放される

その後日本を足場に政権獲得活動を続けていたが 1925年癌のため 北京で死去

彼の革命活動40年のうち 三分の一は 日本での活動であった










失敗の革命家

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孫文のことを "失敗の革命家" と言ったのは 1905年亡命していた東京で 中国同盟会 を結成した時の仲間である

実際この時 彼は 広州 恵州で二回武装蜂起に失敗し 多くの協力者を戦死させている

日本の武士道から考えると 反乱を起こした首謀者が 生きて逃げ延びるとは 考えられないことであったのだ


孫文の失敗履歴は その後も 続く 続く

1895年10月 広州義起   事前の情報漏れで失敗 その後 海外亡命(日本 英国)

1900年10月 恵州義起(1)  日本の協力で台湾より指示するも失敗 山田良政 戦死

1907年 5月 黄岡義起    シンガポールより指示 失敗
      6月 恵州義起(2)  黄岡と連動した決起のため失敗
      7月 安微義起   わずか4時間で鎮圧される
      8月 飲州義起   ベトナムより指示するも失敗
     12月 鎮南関義起  更に中越国境を攻めたが失敗

1908年 2月 飲廉州義起  再度ベトナムから攻めたが 二週間で失敗
          4月 河口義起   雲南省で蜂起したが 一ヶ月で失敗

1910年 2月 康戊義起   広州で新軍を組織し蜂起したが失敗
     11月 黄花岡義起 再度広州で蜂起 マレーから指示するも失敗


結局 彼は十回革命を 起こして 十回とも 失敗した

しかし 彼が参加しなかった1911年の 武昌蜂起 は成功し 結果 中華民国 が建国された 

1912年1月1日 5日前に帰国した彼は (その時は)労せずして 初代の臨時大総統に就任した

しかし 彼が作った組織はすべて長続きしていない その後の中華民国は さらに混迷を極める

1925年 孫文の 亡くなる間際に 言った 言葉

 革命なおいまだ成功せず、同志よってすべからく努力すべし


たしかに ! --- 中国の混迷は 平成の現在でも 続いている



























辛亥革命

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辛亥革命とは 1911年 中国で発生した革命 帝政の清朝が崩壊し 共和制の中華民国が建国された

1894年 日清戦争で日本に敗れ 1900年 義和団事件で諸外国から北京を占領されるなど 清朝の末期的状況が露呈されると 中国国内でも 改革の必要性が認識されるようになってきた

特に 日本など海外留学した知識人 および南部の漢民族などにより 満民族の清朝を倒す目的の 革命組織が各地に構築された

孫文が作った革命組織も 数ある中のひとつであった

1911年 10月 武昌で発生した武力蜂起は 地元の決起軍が勝利し これが燎原の火のごとく周囲に広がり 一ヵ月後には 全18のうち 15の省が 清朝に対して独立を宣言した

1912年 1月1日 これらの省は 話し合いの結果 仏に亡命していた孫文を 臨時大総統に選び ここに 中華民国の建国が 高らかに 宣言されたのである



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袁世凱

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辛亥革命において 中心人物となったのは 孫文 でなくて この 袁世凱 (えんせいがい) ではなかろうか と 私は思う

1859年生まれの彼は 清朝の軍に身を投じ 当初は 朝鮮半島で活躍した しかし 日清戦争で大敗し 軍隊の近代化の必要性を痛感し その後 清軍の洋式化 近代化に尽くした

やがて強力な軍隊(北洋軍)の指導者となった 袁 は 清朝の命令には従わず 勝手に列強と盟約を結んだり 地方軍閥と協調したり その実力がだんだんと 目にあまってきた

辛亥革命が勃発し 革命派が優位な情勢になると 清朝は 仕方なく彼を 内閣総理大臣に任命し 反乱軍を鎮圧させようとした しかし 形勢不利を確信した彼は 命令を受け流し 革命派と裏交渉を続けながら 自分の軍隊を保全し 孫文らの 中華民国の設立を 黙認していた

その後 自分が中華民国の実権を握れる可能性がある と見るや 強権をもって 弱体化した清朝の皇帝に退位を迫り 政権を消滅させた
ここに 1912年2月 秦の始皇帝以来2000年続いた皇帝政治は ついに終了したのである

1912年3月 袁世凱は 孫文の後を継いで 中華民国 第2代臨時大総統に 就任する
彼は 軍事力を背景に 総統の権限を強化し 反対する政敵を押さえつけた 議員内閣制で国民の人気があった宋教仁を暗殺し 孫文を国外へ追放した

さらに 専制色を強める 袁世凱 は 1915年 帝政復活を宣言 自ら皇帝に即位し 国名を 中華帝国 と改めた

しかし さすがに これは 時代錯誤である と 国内外よりいっせいに非難され 一年足らずで退位 その後 彼は 失意のうちに 病死した


袁世凱は 武力を背景に 清朝の指導部 および革命派 さらに外国列強と渡り合い 最終的に 帝政を終了させ その後 選挙により 初代の 中華民国大総統に就任している(臨時ではない)
何回も失敗し 他力本願で なんとか臨時の大総統になった 孫文 とは 建国での目立ち度が 大違いである


しかし 現在 台湾 中華人民共和国とも 袁世凱は悪役であり 時には漢奸(裏切り者)とまで言われている
孫文を弾圧したこと 革命で成し遂げた共和制を帝政に戻したこと が その理由だそうだが・・

たしかに 権力を得るためには 手段を選ばない 裏切りと強権のみの行動では 当時はもちろん 後世からも評価は得られない


せめて 武士道とまでは言わないが 袁世凱に 儒教に基づく 義 の心が 少しでも あったなら

今頃 孫文に替わって 英雄であったかもしれないのに ・・・
















宮崎稲天

日清 日露戦争に勝利し 世界中から注目を浴びていた1900年ころの日本には 中国から多くの留学生が 訪れていた ある者は軍事を学び ある者は政治を学んだ

この中には 当時の清朝を批判し 改革を望む者も 少なくなかった そして 日本の民間人のなかにも 彼らの考えに共鳴し 中国の改革を支持する者がいた



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                                孫文(左)と稲天 (荒尾市の生家にて)

宮崎稲天 (みやざきとうてん) も その一人である   <稲・とう は正しくはサンズイ偏 >

1871年 熊本の玉名郡荒尾村(現 荒尾市) 生まれ 東京専門学校(現 早稲田大学)卒業後 外務省の令により中国の実情調査の仕事に赴き 中国の革命家との面識も増えていった

1897年 横浜で 孫文 と知り合い 彼の革命思想に驚嘆する 以後 日本における物的・人的の支援など 積極的に協力した

1900年 山田良政らと共に 孫文の恵州蜂起援護を画策 具体的な支援を約束するが その後の日本政府の方針転換により 協力内容が ことごとく破綻 武力蜂起も その時は失敗に終わった



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興中会を立ち上げた神楽坂の中華料理店    孫文が結婚式をあげた新宿百人町の梅田邸あたり



1913年孫文は 中華民国の元総統として 国賓扱いで来日

稲天は 時の首相 桂太郎 とのパイプ役として 「日本と中華民国は協力してアジア民族の自立達成を目指す」 内容の密約を交わす など 孫文の片腕として活躍した

さらに 孫文は 稲天の生家の熊本を訪問したり 炭鉱 学校を視察したり 精力的に動き回った

しかし その後 桂太郎内閣の失脚 袁世凱による孫文の追放 により ここでの約束はすべて ご破算になってしまった


稲天は その半生を 「三十三年の夢」 に出版した また 「革命評論」 を編集し 中国革命とロシア革命の宣伝に努めた


そして 注目すべきは 彼は ”桃中軒牛右衛門” の芸名を持つ プロの浪曲師 でも あったのだ

革命を援助する大物の人格に加え 歌舞演芸 の素養も 持っている 

こういう人 私は 好きだな ・・
















宮崎家

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熊本県荒尾市 JR荒尾駅の近くに 宮崎兄弟資料館がある ここは 宮崎稲天が生まれた家でもある

宮崎兄弟は 八男の稲天だけでなく 各々 明治の激動の舞台で活躍している

以下 資料館の展示に基づいて 宮崎兄弟の生涯を説明する



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宮崎 八郎 (1851~1877)  自由民権を勧め西南の役に散った天性の革命児

1864年父と長州征伐のため出陣の際元服 時習館に学び 明治3年上京遊学 しかし東京で感じたものは明治新政府の専制政治への怒りと独立国日本の将来への危機意識であり 6年 左院に征韓の正当性を建白し 第二の維新のリーダー的存在となる 反権力の思想を積極的行動に傾けた時 見出した中江兆民訳の「民約論」に感銘し 8年自由民権思想を掲げた植木学校を設立 あわてた県は わずか半年で閉校を命じた "西郷に天下を取らせる" ため 民権党の同士たちと西南の役で共同隊を組織し戦うが 4月6日ついに八代萩原堤で戦死 時に27歳 自由と平等を愛する兄弟の精神的原点となる


宮崎 民蔵 (1865~1928)  土地復権を生涯の使命とした人

明治18年上京して中江兆民の仏学塾に入った 程なく病のため帰郷 農村の貧しさを見て土地制度に疑問を抱き 天造物である土地の所有は人類の基本的人権のひとつではないかと気づく その後土地の平均再配分を我が使命とし 30年欧米諸国の遊説の途につく 識者と論じ4年後に帰国 35年同志と共に土地復権同士会を組織したが 43年大逆事件が起こり 国内での運動は中絶 45年 " 平均地権 " の思想を同じくする 孫文 の新生中国の誕生に土地復権実現を託して 大陸へ渡った 孫文の死の床を見舞った後も 復権運動の資金獲得に専念したが成功せず 64歳で永眠


宮崎 禰蔵 (1867~1896)  理想の国を中国革命にみた思想家

明治18年大阪・東京に遊学し 21年熊本市藪の内(現 ホテルキャッスルあたり)に住み病気療養の傍ら 民蔵 寅蔵 友人たちと哲学 社会問題などを激しく論じ その会合は"藪の内組"と呼ばれ 警戒された 禰蔵は 中国を本拠地とした革命によって理想の国を築くことを願った そのため 自ら中国人になりきり 横浜の中国商館で頭髪を剃り 名も管仲甫と称し中国の言語風俗の研究に励んだ 29年孫文一派の陳少白と出会い 宿願達成の端緒と狂喜したが 無常の病に倒れ 「大丈夫ノ真心コメシ梓弓放タデ死スルコトノクヤシキ」 の辞世を残してわずか30歳で長逝



稲天の兄貴たちも 多士済々だが その子孫にも 実は まだ ここで言いたい 人物 が いる
 
それは いずれ ・・













頭山満

宮崎稲天と並んで 孫文 にかかわりのあった 日本人

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頭山満 (とうやまみつる) 1855年福岡藩士の三男として生まれる 母方の家を継ぐことになり 名を乙次郎から満に改名 満は近くの太宰府天満宮からとったそうだ 家は貧乏で苦労の少年時代を過ごす

1876年 秋月の乱 萩の乱が起こる 頭山は 旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄される しかし このため西南の役には参加できず 尊敬する西郷隆盛と共に戦えなかった悔しい思いが 後の玄洋社の思想の原点になる

翌年 板垣退助が決起することを期待して 頭山は 高知にて会う しかし 板垣は武力でなく言論による戦いを主張 自由民権運動を 頭山に説明する

自由民権運動に目覚めた頭山は 政治結社 玄洋社を設立し 啓蒙に励んだ しかし 当時の党利党略に明け暮れる政治に失望し 玄洋社は思想団体として独自の道を歩くようになった

1895年 広州義起で失敗した孫文が 日本に亡命した際 宮崎稲天の紹介で 孫文に出会い 東京での生活費と活動費を援助した また住居の早稲田鶴巻町の屋敷は 犬養毅が斡旋した

1911年 辛亥革命が成功し 翌年 孫文が 前大総統として来日すると 孫文は 各地で大歓迎を受け 福岡の玄洋社や宮崎稲天の生家にも立ち寄った このとき 頭山は 袁世凱 の動向を 強く懸念していたが はたして その危惧どおり 孫文は 再び 日本に亡命を 余儀なくされたのである


28頭山満03  頭山満  犬養毅 孫文

孫文の死後 頭山の玄洋社は 日露戦争で義勇団を組織したり 日韓併合で暗躍したり 日本の侵略主義の先鋒と見られがちであったが 実情は アジア諸国が 自立した"合邦 " となることを求める 平和思想であり 政府 特に軍部の方針とは 隔たりがあった

1925年 孫文の後継者 蒋介石が 頭山を頼って日本に来た時 頭山は蒋介石を激励し その後 蒋介石は 宿願であった北伐を 成功させている

1941年 日中戦争が泥沼化していた時 頭山は東久邇宮から 蒋介石との和平会談を試みるよう依頼される 玄洋社に画策させ 蒋介石から「頭山となら会ってもよい」 との返事がきたが 東条英機から横槍が入り 会談は幻となった


頭山満は 政治家ではない 玄洋社を設立し新聞社も作ったが 役職には一切ついていない

それでいて 中華民国の記念日には日本を代表して首相とともに出席している

いまで言うと 政界を牛耳る 民間の黒幕 というべきか それにしても 度量が 桁外れに 大きい

玄洋社は 右翼団体の先祖 とも言われている しかし 自由民権運動から始まって 独立運動の支援 列強との和平工作 本当に国を憂えての活動 には 今の右翼団体とは 雲泥の差


孫文が 死ぬ間際 本当に 最後に 言った 言葉は    「 頭山さんは お元気か・・  」


























山田良政

台北市にある 忠烈祠 ここは 国のために命を落とした 33万人の戦士 を 奉っている

今は 観光名所 衛兵の交代式を見ようと 大勢の観光客が 訪れる


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ところで ここに奉られている唯一の日本人がいる 

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  山田 良政 ( やまだよしまさ )


山田良政は 1868年 弘前にて 津軽藩士の長男として生まれる 東京に出て 北海道昆布会社の上海支店に勤務した

日露戦争が始まると 中国語の堪能さを買われ 通訳として活躍し 戦争終結後も 政府から依頼され 中国国内で 列強の活動 を 調査した

そのころ 圧政に苦しむ中国の民衆を 眼のあたりにして 中国内の改革派とも親しくなり 清朝の西大后の弾圧から王照を救い 日本へ亡命させるなど 改革派への協力姿勢を明確にしていた

1899年 広州義起に失敗して日本に亡命していた孫文に 宮崎稲天の紹介で 会う
そこで 孫文の革命思想に意気投合し 同志としての支援を 約束した

1900年10月 恵州で武装蜂起を企む孫文に対し 良政は大学教授を辞任して一緒に台湾へ向かう

ここで 良政の叔父である 後藤新平 を通して 台湾総督の 児玉源太郎 と かけあい 革命軍に対して三個師団分の武器 を 提供する約束 を 取り付けたのである

革命の成功を確信した孫文は さっそく 中国本土の 同志 鄭士良 に蜂起指令を出した

しかし 丁度そのとき 日本では山県有朋内閣から伊藤博文内閣に交代し 中国への内政不干渉政策が とられた

このため 児玉源太郎の武器供与はじめ 稲天・良政らの人的支援もすべて白紙になってしまった

そうなれば 蜂起の継続は不可能と考えた 孫文は 良政に言った < ココ から 脚本 調 >


孫文  良政どの 残念ながら武器が供給できない状態では 革命の継続は無理だ 次の機会を待とう !

良政  わが国の約束が 反故になって 真に 申し訳ない 
     一刻も早く 蜂起軍に伝え 彼らの命を守らねば

孫文  現地は危険だ 同志の 鄭士良 に伝え 彼が逃げられれば それでよいのでは

良政  伝令の役は 私にやらせて下さい そして 蜂起軍を 安全に香港へ非難させるつもりです

孫文  そこまでやる必要はない 君は生きて帰ってきてくれ

良政  私には 津軽藩の 武士の血が 流れております
     自分たちのために 命をかけて戦っている同志を 見捨てては おけません
     義 をもって 撤退する軍の しんがり を 努めさせて いただきます




1900年10月22日 良政は 敗走する革命軍の最後で 奮戦する最中 追っ手の清軍に 捕らえられ 日本人と 名を明かさないまま 処刑された


後になって 孫文は 弘前の菩提寺に 碑を建て 自ら 良政を想う碑文 を 書いている


     山田良政先生は 弘前の人なり
     
     康子潤八月 革命軍恵州に起つ
     
     君身を挺して義に赴き 遂に戦死す
     
     嗚呼 其人道の犠牲 亜州の先覚たり
     
     身は湮滅すといえども 而も其の志は朽ちず











宮崎白蓮

孫文の日本での活動を支援した 宮崎稲天 の息子に 宮崎龍介 がいた

龍介は 東京帝国大学在学中から 労働運動に傾注し 吉野作造 大山郁夫 らとも 親交があった

1921年 28歳の龍介は 35歳の 当時人妻であった ある歌人と 福岡市で 運命的な出会いをする

彼女こそ 「大正三美人」 「筑紫の女王」 など センセーショナルなマスコミ記事で 時代の寵児となっていた 柳原白蓮 ( やなぎはらびゃくれん ) である


30宮崎白蓮01 柳原 白蓮

白蓮は 1885年生まれ 本名 華子 (華 は正しくは火偏がつく)  大正天皇の生母 柳原愛子 ( なるこ ) の姪 にあたる すなわち バリバリの良家の子女であった

14歳で子爵の息子と結婚し 一児をもうけるが 5年で離婚 東洋英和女学院に入学し その頃から 歌人 としての才能を 発揮し始める

27歳で 52歳の炭鉱王・代議士でもあった 伊藤伝衛門と再婚する 白蓮には 兄の衆議院立候補の資金援助の用 もあった 名門華族と 炭鉱成金 の結婚に 当時の新聞は " 黄金結婚 " と大いに もてはやした

伊藤は 白蓮のため 福岡市 別府 ( べふ ) に赤銅(あかがね)御殿を建て 迎え入れた
しかし 結婚は 伊藤の名誉欲 のためであり 妾も 数多く居て 夫婦生活は しっくり行ってなかったようだ

福岡の赤銅御殿は 歌人たちのサロンとなり 白蓮も 詩集 歌集 の創作にひたすら励んでいた

1918年 ある戯曲を雑誌に発表 この戯曲を上演するべく許可を取りに 東京からやって来たのが 当時「解放」の記者だった 宮崎龍介 である   < 必要な人はこの記事の最初に戻る >

その時 二人は 一目会って ビビッ! と 感じた ので あろう  ・・ !!

それからの二人の行く末は 皆さまの予想通り その後 白蓮は 東京へ出るたびに 龍介と 逢瀬 を重ね やがて 龍介の子を宿す

当時 男は何人でも 妾 を持ってよかったが 女が別の男と浮気するのは 姦通罪 という重罪であった

当然 新聞は 書き立てる 「同棲10年の夫を捨て 情人の許へ走る」  気丈な白蓮も また 「金をもって 女の人格を無視する貴方に 訣別します」 なんて 絶縁状を 公開した ものだから ・・

白蓮を非難する世論が沸騰 街宣車が走り回るなど 国をゆるがす大事件 に 発展した

応援する女性の声は小さく 結局 白蓮の華族追放 兄の議員辞職 財産没収などの措置で 何とか落ち着き 伊藤との離婚が成立 はれて 宮崎龍介との結婚(3度目)が実現したのである

宮崎龍介は その後 弁護士として活躍 戦後は 平和運動に積極的に参加 日本社会党の創立にも協力した 1966年 孫文生誕百年式典 には 周恩来から 稲天の遺児として招待され 夫婦で出席した

白蓮は 歌人として 文筆活動を 続ける一方 当時 皇太子と正田美智子の結婚に際して 皇后や旧華族と共に 強硬に反対する など マスコミを賑わす素養は 相変わらず 続いていた

1967年81歳で逝去


宮崎白蓮という人は 現代においては普通の 女性の権利 を主張した また 歌人として 卓越の仕事も した

しかし 育ちが良く 絶世の美人であったゆえ 世の注目の的となり 政治部 から 芸能社会部 へ担当記者が代わっていった感じが する


恋に生きた たくましい女性像に 同感する人は多い   10年後には NHK大河ドラマに 適





追記

10 年後 の 大河ドラマ に・ と 言ったが 5 年後 朝ドラ 「 花子とアン 」 に 白蓮は 登場した

仲間 由紀恵 の演技 が よかったね~   この ドラマを 見て 白蓮 に 関心を 持った人も 多い と 思う


もしこの 記事を 見て ドラマに 採用しよう ということ だったら NHK の プロデューサ に お礼を 申し上げたい

他 にも ドラマの モデル 私の 記事に いっぱい 出てくる ので よろしく ー

宮崎稲天  山田良政  中山忠光  中山慶子 ・ ・














孫文 日本にて

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この 孫文 の 書 は 九州大学の 総長室に 掲げられているものである

1911年 3月19日 孫文は 頭山満の玄洋社に 立ち寄った後 九州大学医学部 を 訪問し 大学・病院を 見学した
革命家の孫文は また 医学博士でも あったのだ

夕方 の講演で 「中国の発展は 科学技術の習得に負うことが大きい 先進国の日本の支援を 期待している 両国の親善が深まることを 切に願っている」 と述べた

しかし その後 日本と中国は 孫文の言った 真反対の方向へ進んでいく ・・

孫文は この時 九州大学のほか 宮崎稲天 頭山満の 案内で 九州各地を 視察している

  宮崎の生家(荒尾市) 頭山の玄洋社(福岡市) 八幡製鉄所 三池炭鉱

  明治専門学校(九州工大) 三池工業学校(大牟田市) 済々黄高校(熊本市)


29孫文と九大02

この 書 は 民主党の岡田かつや氏の実家(三重県)に飾られているものである

HPによると 孫文の日本亡命時 日本で孫文を支持する団体がおり その人たちへのお礼で書いたものらしい

次に 

孫文は 亡命中 美人三姉妹で中国で名をはせていた 宋姉妹の次女 宋慶齢 と新宿の梅田邸で結婚式をあげている さらに ・・

その短い期間に 日本人の妾 とのあいだにも 子供をもうけている

本業の革命は なかなか成功しなかったが 子作り に関しては 速攻 即断 百発百中 


人の心をつかんで その気にさせる 天才 孫文 の 一面





















漢奸

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漢奸 (かんかん) とは 裏切り者 の意味である

正確には 漢民族に対して背信行為を行った者 の意味であるが 中国では これまで 国の方針に逆らうものは おしなべて こう呼ばれ 非難の対象に なってきた

日本で言えば 非国民 売国奴 ていうところでんな

中国で数多く使われたのは "日本に協力する中国人" であり これまで ただちに処刑されたり 裁判にかけられたりしていた

主な人物としては

愛新覚羅蒲儀   清朝最後の皇帝 後の満州国の皇帝
川島芳子      清朝粛親王の皇女 日本軍に協力し 「男装の麗人」といわれた
汪兆銘        日中戦争中 日本寄りの南京政府を設立した
幸顕栄        1895年日本軍の台北入城を要請した

一世を風靡していた李香蘭(山口淑子)も漢奸の疑いで訴追されたことがあった

日本でも 戦争中に 非国民 という言葉があったが 往々にして 時の権力を持った政府が 反体制派を抹殺するために使われる ことが 多かった

北朝鮮では 将軍様を尊敬しない者は処刑される 韓国でも 戦時中の日本への協力者狩り を いまだに 続けている

このような 魔女狩り的裁判では 冷静な判断が行われず 多くは 不本意のまま 虐殺されている と 思われる


虐殺といえば 中国は 日本軍の南京大虐殺で百万人が死んだ と執拗に宣伝している

実際 銃や剣で短期間に百万人も殺すのは 物理的に無理であり 私は その時代の通常の出来事であったのでは と思う

ナチスの収容所では 流れ作業式に毒ガスによる大量殺人を行ったが それでも あの期間で 300万人程度である 原爆も使った米軍の日本空襲でも 犠牲者は全てで 400万人程度である

南京虐殺を認めない わけではないが 犠牲者の膨らみは どう見ても 反日教育の感が強い

そもそも 中国では 孫文の死後 日本軍との戦いよりはるかに長い間 南京を中心に内戦が続いていた

国民党の蒋介石と共産党の毛沢東の争いでは 数千万人以上が処刑された と言われている

また 毛沢東の文化大革命では 飢饉などもあったが 反対派弾圧により 一千万人以上が死亡した とも伝えられている

中国の傀儡政権であった カンボジアのボルボト政権は 国内で 反対派弾圧のため 数百万人を処刑している

とにかく 中国(周辺)では 人の命は 限りなく 軽い

1937年 日本軍は南京を攻めたが 孫文と親交があった 日本軍の司令官 松井大将は 孫文の墓 中山稜に戦火が及ばぬよう厳令し 稜を保全した その後 松井は 日支両軍の犠牲者の冥福を祈るための碑建立などの活動をした しかし 東京裁判では 南京司令官ということで死刑になった


今日の記事は 殺されることばかり ・・  

だれも知られず あっさりと まとめて 殺された人の怨念 が 漂ってきた

漢奸 非国民  ほんとに イヤな言葉 だね 

もう お互い 殺し合い は やめようよ ・・

















三民主義

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孫文が提唱した革命の基本理論 三民主義 ( さんみんしゅぎ ) とは

その 1 民族主義

当初は 満州民族の清朝を倒し 漢民族の国家を作る
後には 欧米列強の半植民地状態からの脱却と 他の民族との共和 を意味するようになった

その 2 民権主義

主権在民で 5権憲法 ( 司法 立法 行政 官吏の考試(採用) と 官吏の監査 ) による共和国設立
を意味する

その 3 民生主義

国家主導の近代化 と福祉の充実 地権平均の原則で 大土地所有や独占資本を 制限する


ところで

孫文の妻 宋慶齢 は 孫文の死後 中国本土に残り 中国共産党の大幹部に君臨した

また 蒋介石の妻である妹の 宋美齢 は一緒に台湾へ渡り 蒋介石の死後はアメリカに滞在し 反共運動を続けた

毛沢東が生んだ 中華人民共和国は 三民主義の意向に沿って  その後

一党独裁の強力な政府を作り 大資本を制限し チベット 新疆ウィグル地区の統合で民族の共和??

を 図ってきた


しかし いまだ 人権の軽視 自由の制限 が見られ 国際社会では 成熟国とはみなされていない

それに比べ 台湾では 一党独裁もなく アメリカ的自由も尊重されており 経済的実力もあることから 今後 台湾が本土に吸収されて 現政権が消滅することは ない と 私は 確信する

ところで

台湾の国歌は "三民主義" という タイトルである 

歌詞と 現状が 合っているか な ?









中華民国

32国民党成立03 32国民党成立04

1912年1月1日 香港に居た孫文は 宮崎稲天 や 山田良政の弟 純三郎 に迎えられて 南京へ入った

そして 列国に向かって 中華民国の成立を高らかに宣言した

総統就任式には 犬養毅 頭山満ほか 多くの日本人同志も参加し 感激を分かち合った

1912年3月 孫文は 清朝が退位し政権を放棄するのを条件に 臨時大総統の座を 袁世凱に譲るが 袁世凱 は 孫文ら改革派を追放し 専制政治を敷き 自ら皇帝と名乗って中華帝国を作ってしまった

1921年 袁世凱が死んで無政府状態になった中国の状況を見て 孫文 は ロシアのコミンテルン さらに生まれたばかりの中国共産党とも 手を組んで 広州に 政府を 樹立した

しかし 右腕の蒋介石らの不満もあり この政府は失敗に終わった (第一次 国共合作)


32国民党成立01 32国民党成立02

1937年 日中戦争が始まる

このとき 蒋介石の中華民国政府は 本拠地を南京から重慶に移し 日本軍と戦った

南京には 日本軍の支援を受けた 汪兆銘 が政府組織を設立し 日本との和平画策を行っていた

1945年 日本の敗戦により 蒋介石の中華民国が 正式な国家として 戦後処理の会議等に参加した


32国民党成立05 32国民党成立06

1945年 日本の台湾領有放棄により 蒋介石は 南京にて 台湾の領有を 宣言し 台湾に 行政公署を 設置した

しかし 公署の要職を 本土の外省人が独占した ため 本省人(台湾人)の反発を招き 1947年2月 民衆が蜂起する暴動 が 発生した ( 2.28事件 )

これに対し 蒋介石の政府軍は 台湾の知識人 親日派 共産主義者を重点に 徹底的に弾圧した
この時の 処刑者は 数万人にも及んだという

以前から続いていた 中国共産党との内戦は 日本との戦いのあと 再発し ソ連が支持する共産軍と 米英が支持する国民党の 代理戦争の様相を 呈してきた

1949年 4月 共産党軍が南京を制圧し 1950年 蒋介石は 弾圧したばかりの台湾に逃れ ここで 中華民国の正当性を主張した


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1978年 交通事故により政界を引退した 蒋介石にかわり 息子の 蒋経国 が総統になる 米ソ冷戦中のアメリカの指導等により 産業育成と政治の民主化を推進する

1988年 蒋経国のあとを次いだ 李登輝 は 一党独裁制を廃し議会の民主化を行った さらに
これまで 「我々が中国の唯一の政府である」 から 現実的な 台湾独立路線を主張した

そして 彼は日本の統治時代を評価し 日本を手本にして台湾内の 教育改革 産業育成 マスコミの自由化など 民主化 と 経済発展策 を 積極的に推進した

2000年 総統になった民進党の陳水扁 は 李登輝の あまりにも日本寄り を 是正したものの 台湾独立はすでにまぎれもない事実とし 中国本土と対立した また経済的には東南アジアとの経済交流を進めた

2008年 総統になった国民党の馬英九は 台湾独立より 実質的な経済発展に重きを置き 三通政策 ( 通商 通航 通郵 ) により 大陸との交流をさらに積極的に推進している


35中華民国06 35中華民国03

その国の歴史を調べると その国の国民感情がわかってくる

日本は50年にわたり 台湾を植民地とした そこで 台湾人のため インフラ整備 教育 産業の育成を行った しかし 差別もあり霧社事件など 反乱の弾圧も行った

日本は革命家 孫文を支援した 蒋介石とも当初友好関係にあったが 戦争で戦う結果となった

周恩来は日本に留学し 毛沢東も日本で発刊される情報誌を読んでいた その後 日本との戦争 東西冷戦 大陸の中華人民共和国は ソ連の影響を 受ける

一方 大陸から逃れて台湾に政権を作った外省人の国民党に対して 台湾の人は 2.28事件の恨みは忘れていない


現在 台湾での日本人への感情は 比較的良好であり 特に日本時代に育った人はその時代を懐かしむ者も少なくない

先人の努力に感謝し 明日から 台湾へ親善演奏会に出かける

日本の マンドリン音楽 を 楽しみにしている台湾の人々のために  ・・ !