
そもそも ・・
西郷隆盛は 明治維新の立役者として新政府の中心人物だったのに なぜ野に下り 反政府の暴乱を起こしたのか ? 以前から 不思議に思っていた
それで ・・ 調べた
鎖国政策を破棄した明治新政府は 隣国の朝鮮に対して 通商のための開国を求めていた
しかし朝鮮国内では 外国人排斥の気運が強く 日本に対して不遜の返事しか返してこなかった
ちょうど 日本が幕末にぺりーから開国を迫られるという まったく同じ状況が 日朝間に起こっていた
政府内では 軍事力を背景に強行に開国をせまる 強硬派と 国内暴動が多発している今はその時期ではない という 穏健派が対立した
強硬派の中心は西郷隆盛 指導下の後藤正二郎 板垣退助 副島種臣 江藤新平など そして穏健派は 岩倉具視 大久保利通 木戸孝允など
穏健派の大部分は その時 約2年間にわたる欧米視察中だったが 留守部隊が強硬派の意見の突出を抑えていたようだ
欧米視察から帰国した穏健派は 天皇の勅断によるとし 御前会議で 強硬派の意見を 封じ込めた
これに憤慨し さらに穏健派が実質的政権の中枢に立ったことにも落胆して 西郷隆盛および彼の指導下にあった役人は一斉に職を辞し 軍隊の幹部らを引き連れて鹿児島へ帰ったのである (明治4年の政変)
下野した西郷隆盛は 私学校を作り しばらくはおとなしくしていたが 私学校の志士たちが 政府の弾薬を奪ったり 中央政府からの交渉団を捕らえたり その反政府行動は決定的になってきた
大久保利通らと一緒に倒幕を成し遂げ 新政府を誕生させた その後 西郷自身が押さえつけてきた各地の士族の反乱 それでも残る士族の不満 全国に多発した町人農民の暴動 自分の意見が通らない現政府
この状況を西郷はどう考えたのであろうか さらに 盟友 大久保利通が 西郷暗殺を指令したということをも知り 周囲の士気に押され とにかく "政府に尋問の廉これあり "ということで行動を決意した
明治10年2月 15日 13000人の兵を挙げ 熊本へ進攻を開始した
ここに 西南の役の火蓋が切られたのである