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G3は今日も元気

典型的な団塊オジさんの自己満足的日記・・早期退職して悠々自適なのだ・・内容は・音楽雑論、マンドリン、二胡、百名山行、花と菜園、旅あるき、原子力と放射線、別荘暮らし、熊本で介護、猫の石松など・<府中市在住> リンクフリー

西南の役 なぜ

熊本城が 要塞として初めて機能したのは 築城後250年も経った 西南の役 の時である

35熊本城C00

そもそも ・・

西郷隆盛は 明治維新の立役者として新政府の中心人物だったのに なぜ野に下り 反政府の暴乱を起こしたのか ?  以前から 不思議に思っていた 

それで ・・  調べた


鎖国政策を破棄した明治新政府は 隣国の朝鮮に対して 通商のための開国を求めていた

しかし朝鮮国内では 外国人排斥の気運が強く 日本に対して不遜の返事しか返してこなかった

ちょうど 日本が幕末にぺりーから開国を迫られるという まったく同じ状況が 日朝間に起こっていた

政府内では 軍事力を背景に強行に開国をせまる 強硬派と 国内暴動が多発している今はその時期ではない という 穏健派が対立した

強硬派の中心は西郷隆盛 指導下の後藤正二郎 板垣退助 副島種臣 江藤新平など そして穏健派は 岩倉具視 大久保利通 木戸孝允など

穏健派の大部分は その時 約2年間にわたる欧米視察中だったが 留守部隊が強硬派の意見の突出を抑えていたようだ

欧米視察から帰国した穏健派は 天皇の勅断によるとし 御前会議で 強硬派の意見を 封じ込めた

これに憤慨し さらに穏健派が実質的政権の中枢に立ったことにも落胆して 西郷隆盛および彼の指導下にあった役人は一斉に職を辞し 軍隊の幹部らを引き連れて鹿児島へ帰ったのである (明治4年の政変)

下野した西郷隆盛は 私学校を作り しばらくはおとなしくしていたが 私学校の志士たちが 政府の弾薬を奪ったり 中央政府からの交渉団を捕らえたり その反政府行動は決定的になってきた

大久保利通らと一緒に倒幕を成し遂げ 新政府を誕生させた その後 西郷自身が押さえつけてきた各地の士族の反乱 それでも残る士族の不満 全国に多発した町人農民の暴動 自分の意見が通らない現政府

この状況を西郷はどう考えたのであろうか さらに 盟友 大久保利通が 西郷暗殺を指令したということをも知り 周囲の士気に押され とにかく "政府に尋問の廉これあり "ということで行動を決意した

明治10年2月 15日 13000人の兵を挙げ 熊本へ進攻を開始した


ここに 西南の役の火蓋が切られたのである


熊本城炎上

明治10年2月15日 西南の役が勃発  熊本に薩摩軍が攻め入ったことを受け 政府は直ちに薩摩軍征討の勅令を発し 有栖川親王を総督とし 山縣有朋 および 川村純義を総司令官とする官軍を編成し 邀撃に向かわせた

皇族を総督としたのは カリスマ西郷に対して 錦の御旗を掲示することで対抗し また もと西郷の部下だった山縣 および西郷の親戚にあたる川村を起用して 西郷軍の士気をゆさぶる狙いもあった

しかし ここ熊本では 神風連の乱が起きて まだ3ヶ月あまり 熊本鎮台の修復もままならず さらに この時 九州各地の旧士族を中心に約6000人が武装蜂起し なんと薩摩軍に加わったのである (在郷薩軍)

熊本鎮台の守備を任された 谷干城(たにたてき)は この状況をみて さらに 気力が漲る精鋭部隊の薩摩軍に対し 平場で戦いを挑むことは無理 と判断し 強固な要塞である熊本城に引き篭もり 抗戦する方針とした 谷干城自身 西郷隆盛を崇敬しており 直接戦いたくなかった ともいわれている

徴兵制で集められた素人軍団4000人とともに熊本城に対峙した守備軍の前に 熊本在郷薩軍1500人を加え14000人を越える薩摩軍がすぐそこまで迫っていた 


43熊本城炎上01

ところが ところが ・・

明治10年2月19日 午前11時41分 熊本城内で火災が発生し 築城以来250年 その雄姿を誇っていた 本丸 本丸御殿をはじめ 宇土櫓を除く櫓を含めた城郭の大部分が 一日にして灰に帰してしまったのである

それは 薩摩軍が熊本城下へ到着する 2日前のことであった <♪BGM その時歴史は変わった >


43熊本城炎上02

火災の原因については 単なる火の不始末 薩摩軍の間者による放火 あるいは守備方が退路を絶つためにわざと放火した とか いろいろ憶測はあるが 今でもはっきりしていない

私なりに推測する 

戦国時代から常套であったが 城に篭城する時は 敵の隠れ家防止や白兵戦を嫌うため 城外の建物を焼き払う 当然 焼き払うのは篭城する側である

江戸時代を経て 城のまわりの家も立派になり重きを得てきたため 鳥羽伏見の戦いでは 焼き払うことが住民からかなりの反発を受けた

篤姫は 江戸の町を守るために無血開城に応じたほどである おそらく攻める西郷隆盛も町を焼き払うのは得策ではないと思ったに違いない

ところが 熊本城が炎上した日 同時に熊本城下の職人町から細工町にかけて約1000軒が火災で焼失したという 失火なのか どちらかが火をつけたとかは はっきりしない

熊本城の西南方面が焼け野原になって得するのは守備軍のほうである 丸裸の包囲軍を攻め易い
結果 家を焼かれた商人職人たちは 政府に対してますます怒り心頭となった いまや熊本城のまわりはすべて親薩摩軍ばかりとなった

こういう状況では だれが城に火をつけてもおかしくないし 1000軒の大火災の火が熊本城周辺に飛び火しても消して防ごうなんて誰も思わない おりしも 金峰山おろしの烈風が吹いていたという 

築250年の木造建築を 維持するのは大変だが これを焼失させるのは たやすい

2時間もあれば 十分


43熊本城炎上03




西南の役 序盤

明治10年2月15日に進攻開始した薩摩軍は 人吉 八代 を経て 2月20日には熊本城近くの川尻に到達した

途中には当然 旧幕府のシンパが居り 一発の銃を発射することもなく むしろ沿道は歓迎の雰囲気だったらしい

熊本に着いても 目の前の熊本城は醜く焼け落ちたばかりであり 熊本の在郷軍との合流もあって 士気は最高であった

中央政府の征討軍もまだ到着しておらず 民意から孤立するわずかの政府軍が篭る熊本城なんか 簡単に落とせると思っていたらしい


44熊本城攻防01 44熊本城攻防02 44熊本城攻防03

無血開城でもするかなと思っていた西郷だったが 思いもかけぬ城内からの攻撃を受け 怒りに充ちて熊本城の総攻撃を行うこととなった

一方 守備側の司令官 谷干城 は 熊本城の要塞としての機能を熟知していた たとえ天守が焼けても近代戦ではそう関係ない 十分守れる  非力な守備軍であったが 樺山資紀 児玉源太郎 川上操六 奥保肇 など 多士済々有能な将校も 数多くいた

薩摩軍は 2日間にわたって総攻撃を賭けたが ことごとく失敗した ここで 加藤清正が実戦向きに練りに練って考えた熊本城の防衛機能が はじめて発揮された


44熊本城攻防04

出鼻をくじかれた薩摩軍は 方針を変え 熊本城を包囲したまま別動隊が北へ進行する作戦に出た ここで到着した中央政府の官軍と対決することとなる

もし薩摩軍が熊本城をこの時 楽に手に入れていたら 官軍に対して強固な拠点を持つこととなり 補給も楽に出来て 大軍のまま北へ進撃することが出来たと思われる

田原坂の戦い や その後の戦局も 大幅に変わっていたかもしれない

最終的に 薩摩軍が熊本城に入ることはなかった

西郷隆盛が西南の役で敗れた最大の原因は 熊本城を甘く見ていたせい と云えるのではなかろうか







西南の役 天王山

熊本城攻めに手こずっている間に 征討の官軍が到着し 戦陣を組む必要になった薩摩軍は 高瀬(玉名) - 植木 - 山鹿 - 隅府(菊池) を 結ぶ線を 前線ラインと定め 官軍を迎え撃つこととした

これこそ 加藤清正が熊本城を守る邀線 と決めた線と 同一であった
細川藩もこれを受け継ぎ この地を天然の要衛にすべく道路 家屋などを整備 また制限していた

兵員の数では劣る薩摩軍は 地元在郷薩軍の情報も生かし 地の利を最大限生かした戦いをした

高瀬では 官軍薩摩軍が入り乱れ 重要拠点の占領と奪還をくりかえしたが おおよそ薩摩軍の優勢で戦いは進んだ

しかし 弾薬の補給体制などが 官軍にかなわず 石貫(現玉名市の北) の要衛の地 稲荷山を 桐野千秋率いる薩摩精鋭隊が徹底して攻めたが どうしても落とすことが出来なかった

さらに2月27日 高瀬川の攻防で一番隊隊長の西郷小兵衛が戦死するなど はじめて損耗も被った 


45天王山01

3月に入って官軍は田原坂 吉次峠 を突破して南下する方針とした

田原坂の戦いは 薩摩軍の地の利作戦が功を奏し 抜刀隊の働きもあって 官軍はいたずらに戦死者を増やすだけであった

薩摩軍の方も 官軍の豊富な物量 人員補給などで 撃破して進攻するまでには到らず お互い対峙する状況であった

田原坂の西方 吉次峠の方は ここも激戦であったが なんとか官軍優勢で 対峙する状況であった

3月20日 官軍は消耗の激しくなった薩摩軍に対し総攻撃を開始した しかし どうしても田原坂を突破できない官軍は 後背の横平山を奪還する作戦に変えた

後世に残る激烈な戦闘の結果 官軍は横平山を占領し 薩摩防衛ラインをはじめて突破した

このあと横平山から 七本にある薩軍本営 に対し大砲撃を加え この陣地を落とした さらに 付近の薩摩軍を 側面 後面からも 攻め続けた

さすがの薩摩軍も じりじりと押され 防衛線を南へ戻すしかなかった

田原坂 吉次峠の戦いで 薩摩軍は 副司令官格の 篠原国幹が戦死し 勇猛な志士達が多数討ち死にした
一方 官軍の被害も甚大で 戦死者は3000人以上にのぼり 小隊長20人のうち11人が戦死した程であった


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4月に入って 薩摩軍は本営を木山(現益城郡)に構え 体勢を立て直して 防衛ラインを熊本城 大津あたりに設定した  以後 戦いは熊本城東域に移っていった

城東の戦いでも 戦局は一進一退を続けていたが 兵力を増やし続ける官軍に対して 確実に消耗する薩摩軍には どうしても戦局を打開するだけの力はなかった

ここで篭城していた熊本城守備隊は 包囲している薩軍の背後の官軍と連携し薩軍を攻撃して食糧を手に入れることが出来た やがて開城するまで40日間 守備隊はついに熊本城を守り通したのである


45天王山07

高瀬の戦い 田原坂の戦い 城東の戦い は 西南の役の天王山であった ここで薩摩軍の進攻は止まることとなった

その後は大分 宮崎 さらに八代湾岸 人吉で戦いは続いたものの もう流れは官軍の方であり 在郷薩摩軍は降伏するもの多く 薩摩軍本隊は 徐々に鹿児島へ押し戻されていった

明治10年9月24日 城山の攻防で 西南の役は 終焉した













堅固なる故に

熊本城の東側および南側は坪井川で囲まれている 内側には長塀に代表される鉄壁の守りがある

北側は 百間石垣など堅固な壁のほか さらに数十メートル深さの掘割り(現いわね橋下) があり まず近づけない

西側は 井芹川で囲まれているが 城山がゆるやかに下っており 二の丸 三の丸で防御を固めているものの 攻めるにはここしかないという形であった


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明治10年3月12日 おりしも 田原坂では官軍と薩軍の激戦が 真っ最中であった

熊本城を包囲している薩摩軍は 北部戦線への応援の必要性から なんとか篭城する政府軍を早く撃滅したいと考えていた

そこで 熊本城のすぐ西にある 段山(だにやま)に砲台を置いて攻撃すべく 段山奪取作戦に出た

守備隊も 眼と鼻の先にある段山に大砲を置かれてはたまらない 段山確保のため果敢に薩摩軍に攻撃をかけた (段山の戦い)

この戦いも熾烈をきわめ 双方合わせて300人以上の戦死者を出しても決着がつかず 最後は薩軍の兵力不足で段山奪取をあきらめた形となった


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その後 薩軍は 各地で戦局が不利になり ますます熊本城包囲軍を減らす必要に迫られた

3月26日 在郷薩軍の提言を受けて 石塘の堰止めを行い 井芹川の水をあふれさせた 熊本城の西部は一面の湖となった

これにより 包囲軍は兵員を減らすことが出来たが 守備軍にとっても守りやすくなって どちらも有利に働いたようだ


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ずっと後になって 井芹川は河川改修により 熊本城を離れるルートに変更された

しかし 以前の井芹川跡 (JR上熊本駅~熊本駅の西側あたり) は いまだに低地でじめじめしており 雨が降るとすぐ冠水する

特に 母校の 中学校グランドは ひどかったね~


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佐々友房

田原坂から望む 吉次峠付近 遠くの雲仙岳がうつくしい 西南の役の激戦を 想像する

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明治10年3月 吉次峠を守る薩軍側は 隊長 佐々友房 (さっさともふさ) 率いる神風連の流れをくむ熊本隊 (在郷薩軍)

田原坂に劣らぬ壮絶な戦いの結果 隊長の佐々は瀕死の重傷を負い 官軍に囚われる身となった

西南の役 後 宮崎の収監所で過ごした彼は その後 熊本県の教育界に大いに貢献することとなる


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獄中では 以前 時習館で習った博学を生かし 青年たちに教育していたが ここで国家人材の育成の必要を痛感し 出獄後 明治12年 熊本市に 私学校 "同心学舎" を 設立した

3年後 "済々黌 "(せいせいこう) と名前を変え 精力的に青少年の教育を行った 済々黌は現在の熊本県立済々黌高等学校である

佐々友房は その後 政治結社 新聞社の幹部を歴任し 皇室中心 国家主義思想の普及に努めた
また 明治22年の第一回帝國議会では衆議院議員となり 政党幹部も 勤めたのである


さて その後の 済々黌

明治24年(1891年) 済々黌付属女子学校を設立 現在の私立 尚絅(しょうけい)高校である

明治29年(1896年) 済々黌分校を  天草 山鹿 八代 に設立  それぞれ現在の
             熊本県立天草高校 熊本県立山鹿高校 熊本県立八代高校 である

明治33年(1900年) 済々黌より第二済々黌を分離 第二済々黌は 現在の熊本県立熊本高校である



これらの卒業生が その後 国内で活躍した成果 を見れば 佐々友房 は "熊本の教育の祖" と 云ってもよいのでは なかろうか







蓮田善明

田原坂から見晴るかす三の岳は 今も昔も変わらない

 " ふるさとの 駅におりたち 眺めたる かの薄紅葉 忘らえなくに "

薄い紅葉 とは 官軍と薩軍の流した血を 意味するのだろうか

明治から昭和を性急に生きた文人 蓮田善明(はすだぜんめい) の句碑が 田原坂に建っている


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蓮田善明は 明治37年植木町生まれ 済々黌時代から文芸に親しみ広島師範学校を卒業後 大学の教授の傍ら 文筆活動を続けていた

彼の芸風は 田原坂の戦いに影響されたのか 武士道 神道 に通じる 「死ぬことは美しきことなり」  独特の死生観を持っていた

三島由紀夫と一緒に"文藝文化"を創刊したが 勃発した太平洋戦争に召集され 南方戦線へ

敗戦時は中隊長でマレーのジョホールバルで迎えたが 隊の帰還の準備をする連隊長に怒り 射殺するとともに 自分もその場でピストル自殺して果てた

 " 日本のために妖賊を斬り 皇国日本の捨石とならん "  

彼の中では 敗れた以上 死ぬのが当然 であったのだ


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蓮田の思想的な影響を強く受けていた三島由紀夫は 武士道の"葉隠"に関心を持っていた

また 神風連の乱や西南の役の志士に対しても その死生観に いたく共鳴していたという

1970年 三島由紀夫は まさに 彼にとっては美学であった そのとおりの行動 を 実践した


48蓮田善明03

すぐに感化されやすい この私

 死ぬ時は いさぎよく ! 

最近 なんか 出来そうな 気分 ・・・








人物列伝

熊本城を紹介する つもりで書いてきた このシリーズ

明治維新から西南の役まで 調べているうちに だんだん面白くなってきた

特に むかし我家近くで起きた事件 その時代を動かした人の考え方 など 歴史上の人物が 身近に思えてきて 本当に ワクワクする


49熊本城関係者01

幕末から日露戦争あたりを 背景にした小説 として 司馬遼太郎の "坂の上の雲" が有名である
主人公達は それぞれの大志を胸に命を賭けて挑戦した あるものは大成し あるものは望みかなわず果てた

"坂の上の雲"の意味は

坂の下から望む美しい雲(願望)は すぐに掴めそうであるが 坂を上がってみると遥か遠くにある
  ・・ 夢は なかなか かなわない
私の場合 山登りで すぐ頂上だと思って坂を登ったら 遥か向こうに頂上があった"坂の上の頂き"
  ・・ これは 少し努力すれば 目的は かなう


49人物列伝02 49熊本城関係者03

1863年 水俣で生まれた文人 徳富蘇峰 (とくとみそほう) は 織田信長から西南の役までを綴った 全100巻 "近世日本国民史"を 34年の年月をかけて 完結させた

その弟 徳富蘆花 (とくとみろか) は "不如帰" で人気を博した文豪であったが 私が始めて東京に出てきて住んだところが 世田谷の蘆花公園前だったのも なにかの 因縁か ?


私は まったく 文人でも文豪でも ないが

これまでの 登場人物について もう少し 書いてみたくなった





有栖川宮織仁親王

はじめに

恐れ多くも 皇室の御方々について 下賎な私が この様なWebの場所で 高見から論評するなんて 真にもって おこがましい限り で ありまする が・

すべて 出典 根拠を調べた上での 確かな史実の記述 であり もし 感想のなかで 誤解を与えるような表現があったとしても なにとぞ お許し頂けるよう 切に 切に お願い申し上げます


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有栖川宮織仁親王 (ありすがわみやたるひとしんのう)  ・・ < 織(たる) は正しくは火へん である >

よく知られているのは 皇女和宮と婚約していたのに 公武合体で破談にされた 悲運の親王?

和宮の その後は 多数文献に取り上げられているが 有栖川宮親王の その後は あまり話題になっていない  ますます 悲運の親王 ・ 

しかし 公家出身としては数少ない武闘派で 薩長の要人とも堂々と渡り合える力量をもっていた

有栖川宮親王は 当初から 朝政に深く参画していたが 長州藩と個人的関係が深かったため 蛤御門の変 さらに その後の長州と朝廷の対立により 時の孝明天皇から 謹慎処分を受ける結果となっていた

ところが 明治になると 薩長同盟 や幕府側の凋落など 状況は一変した
明治天皇は 有栖川宮親王の有能さを 重宝し 再び活躍の舞台が回ってきた

鳥羽伏見の戦いでは 親戚の徳川慶喜が朝敵になったことを恥じて自ら志願して東征総督となり
その後 薩摩軍 長州軍を率いて 江戸攻め 会津攻め を 行った  

ただし ここでの主役は 西郷隆盛 勝海舟 篤姫 幻の婚約者の和宮 白虎隊 など ・・ またしても 有栖川宮親王は あまり文献には登場してこない

東国平定の後は 欧州視察に出かけ その後 福岡県の知事に就任 さらに その後 元老院議長も勤めた

そして 西南の役が勃発すると これまでの実績 経験から 薩摩征討総督 に任ぜられる この時の実働司令官は 山県有朋 である これまでの忠実な部下 西郷隆盛を討たなければならない 立場となった

この戦いの最中 博愛社(後の日本赤十字社) 創設の建議を受けたが 敵味方区別なく介護する精神に感激し 即刻 許可したという

西南の役以降は さらに明治天皇からの信頼が深まり 明治天皇の名代 として ロシア アメリカへ赴き 政府代表の行事などで 活躍した

日清戦争が始まると 当然ながら またしても陸海軍の総司令官  しかし 広島大本営で症病により倒れ 61歳の波乱の人生を閉じた

子供運もまた 悲運のままで 二度の結婚でも跡継ぎはできず 明治天皇に頼んで義弟を跡継ぎに したものの 義弟にも男系跡継ぎはできず 大正12年 有栖川宮家は 断絶した


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東京 南麻布にある有栖川宮記念公園

私事であるが ここは ン十年前 当時 付き合っていた彼女と よく デートした 想い出の場所 でもある
そのころ 銅像が 織仁親王 とは 知らなかったが・

恋人以上 婚約未満までいった彼女であったが 故あって別れてしまった ♪ 別れたら~次の人~
次の人 すなわち 現在の相方 との間には 子供は いない

そういえば 資料の写真とか見ていると

有栖川宮織仁親王 と 私は 背格好も同じだし 顔も何となく似ているような  ・・ 






とことんやれ節

有栖川宮織仁親王が 東方征討伐の総督として 江戸 会津を攻めたとき 官軍の行進の状況を歌ったもの
トンヤレ節 とことん節 とも言う

作詞は その時の参謀長 品川弥次郎 作曲は 大村益次郎であるが 祇園の芸者の作という説もある


54トンヤレ節01

みやさんみやさん おうまのまえで ひらひらするのは なんじゃいな トコトンヤレトンヤレナ

あれはちょうてき せいばつせよとの にしきのみはたを しらないか トコトンヤレトンヤレナ

いってんばんじょう ていおうに てむかい するやつを トコトンヤレトンヤレナ

ねらいはずさず どんどん うちだす さっちょうど トコトンヤレトンヤレナ

ふしみよどとば もとくずはの たたかいは トコトンヤレトンヤレナ

さつどちょうしの おうたるてぎわじゃ ないかいな トコトンヤレトンヤレナ

おとにきこえし かんとうさむらい どっちへにげたと とうたれば トコトンヤレトンヤレナ

しろもきかいも すててあづまへ にげたげな トコトンヤレトンヤレナ

あめのふるように てっぽうのたまの くるなかを トコトンヤレトンヤレナ

いのちおしまず すすんでいくのも みんなおぬしの ためじゃもの トコトンヤレトンヤレナ

くにをおうのも ひとをころすも だれもほんいじゃ ないけれど トコトンヤレトンヤレナ

さっちょうつちの てさきに てむかい するゆえに トコトンヤレトンヤレナ



文献では 言い回しの違いなど いろんな歌詞がある また どうしても メロディに対して字たらずの歌詞もあるが 言わんとすることは わかる

関東の侍どもは 朝敵になったので我々薩長土肥の軍隊が征伐しなければならぬ しかし人を殺すのはつらい 

軍歌であるが 武士の情の本音が入っている それゆえ 明治時代 軍だけでなく庶民の間にも爆発的に流行した

お囃子の" トコトンヤレナ "から 徹底的に 一生懸命やる 意味の "とことん" が生まれたといわれている

そういえば 五月みどり も歌っていた ♪ 一週間に十日来い トコトン トコトン~ 






乃木稀典と児玉源太郎

西南の役で 27歳の乃木希典 (のぎまれすけ) は 官軍第14連隊の隊長 一方24歳の児玉源太郎 (こだまげんたろう) は 熊本城守備隊の副参謀 であった

乃木稀典は 田原坂の戦いで 軍旗を奪われたり 部下をほとんど戦死させたりの不戦果で 名を知られていたし 児玉源太郎も 新風連の乱では活躍したものの 熊本城守備軍では 目立った働きをしていなかった

西南の役の後 二人は その時の功績? により 陸軍大将 参謀長 台湾総督など を歴任した
しかし 現在 乃木希典にくらべ 児玉源太郎の知名度は低い


51乃木児玉01

日露戦争においては 乃木が旅順攻略を狙う総司令官 児玉が満州での連隊長 であった

旅順の203高地で 乃木は ちょうど田原坂時代と同じく 何千人もの死傷者の出しながら ロシア陣地を攻めあぐねている状態であった

見かねた児玉は視察の名目で乃木を訪問したが 次の日に203高地はあっさり落ちたのである
さらに旅順港のロシア艦隊も撃滅し あのバルチック艦隊全滅にも 大いに寄与した

この状況は 史実としての記録は存在しない 当時 上官の作戦に介入することは 軍法会議もの だったからである しかし この時 戦術に有能な児玉が乃木に助言したのは 間違いないようだ

"坂の上の雲"では無能な将軍とコキ降ろされているが その後の乃木は "軍聖" と あがめられた

いろいろ調べてみると その理由が分かるような気がする

まず 第一に風貌 なんといってもカッコいい 端正な顔に立派な髭 軍服ですっくと立った姿には軍人だけでなく 当時の民衆にあこがれを持たせる十分な オーラ があった

水師営の会見では ロシア全権のステッセルに対し礼儀正しく紳士的に対応し 世界中から日本人の品格を絶賛される 功績を挙げた

明治天皇崩御の際 後を追って殉職したのも 当時の国民に衝撃的な感銘を与えた

死ぬこととは美しきことなり まさに武士道 の手本 妻と一緒だったことも夫婦の絆の強さをうかがえるものだった ただし 遺書には西南の役で軍旗を奪われた屈辱 また旅順攻撃で大量の戦死者を出した責任を取ったとある

後の軍部は 国家主義的思想の象徴として 乃木大将を 神格化した

学習院の院長時代は 後の昭和天皇の教育係を努めたように
乃木は 軍事的才能 というより 人格 精神的な魅力で わが国の歴史に貢献したのである




盟友の 児玉源太郎 は 常に乃木を崇拝していた

日露戦争の際は 旅順攻撃のみならず アメリカとの調停依頼 ロシアの内政攻撃 武器の調達など 表に立たない活躍の記録が残っている

児玉は乃木より3つ年下であったが 乃木が失敗して辞めた台湾総督を引き継ぎ 後藤新平を起用して台湾統治では その政治的手腕も発揮した

一方で抵抗派を弾圧しながら 産業インフラの整備 教育振興など台湾の近代化に貢献した
現在の台湾が親日的であるのも 児玉以下代々の総督の努力の結果が大きい

江ノ島に 児玉を祭った児玉神社 があるが ここに台湾から送られた 口の中で石が回る狛犬 がいる
昨年 訪れた時 私は 裏の崖から危なく転落しそうになったが ・・


51乃木児玉04

ちなみに 曾孫の 児玉進 は TVプロデューサー 作品は 「これが青春だ」 「太陽に吠えろ」 「傷だらけの天使」 など 多数









山県有朋

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西南の役の官軍の実質総司令官 山県有朋 (やまがたありとも) は 明治期を代表する政治家である

生まれは 長州藩の足軽の身分 であったが 松下村塾に顔を出したり 努力の人であった
高杉晋作の騎兵隊で 頭角を現し 長州閥の中心に躍り出た 会津征討では 参謀を務めた

その後の明治政府では 陸軍卿として 西郷隆盛と一緒に 軍制改革を行い 徴兵制 を 確立した
これから "国軍の父" と 言われた

しかし 軍の資金を民間の商社へ横流しする汚職事件に関与したことが発覚し (山城屋事件) 一時政界から 遠のかされていた 

ここまでは つい最近のどこかの総理大臣と まったく同じ足取り

しかし 軍政に関しては 彼に代わるものがおらず すぐに呼び戻される

西南の役では かつての同僚を討つことになったが 薩摩軍の士気に対して官軍の物量 で対抗し 官軍を勝利に導いた

その後は 政界のトップに駆け上がり 内閣総理大臣を 2度務め 教育 治安 選挙 など 制度の整備 を 行った 間の 元老時代 には 日清 日露戦争も指揮している

総理大臣を引退後も 元老として隠然たる影響を保持しており 伊藤博文 桂太郎 ほかの長州閥のドンとして 大正初期まで 君臨し続けた

しかし 奢れるものは久しからず
大正10年 裕仁親王(後の昭和天皇)の婚約に関して 良子女王に辞退を迫る口出し を した為 (宮中某重大事件)
これまで虐げられていた反山縣派に いっせいに非難され 失意のうちに 翌年83歳の 生涯を 閉じた


山県有朋 の写真を見ると 風貌は 細身で好々爺 であるが 軍政家らしく性格は したたかで 豪放無比であった らしい

住まいも 東京の椿山荘 を はじめ 京都 那須 小田原に 豪華な庭園を有する邸宅 を 構えていた

成金趣味と言われている が ・・ 

どこまでも アノ元総理大臣 に 似ている





伊藤博文

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伊藤博文は 山県有朋と対比して よく語られる

長州の低い身分の出 松蔭塾 騎兵隊 で頭角を現す この付近は 山県有朋と同じ
理論派 英語力抜群 清貧(金銭欲なし) 軟派(女好き) この辺は 山県有朋と反対

内閣総理大臣を4期も務め 大日本国憲法を創案し立憲君主国の基本を作りあげた 偉大な政治家として知られるが 青年の頃は血気盛んな剣豪だったらしい

尊皇攘夷の志士として 高杉晋作のもと英国公使館焼き討ち事件に参加したり 開国派の文化人を暗殺したり・・

しかし 長州の海外視察に参加し欧米の事情を知ると 一変 開国主義となり その後の長州派の勢いに乗って 政府の中枢に加わっていった

岩倉使節団では その英語力により通訳としても活躍し また 初代の内閣総理大臣を決める時
" いくら身分が高くでも 赤報(外国電報) も読めん ではなぁ " 
という山県有朋の一言で 大本命を逆転して 総理大臣に決まったと言う

伊藤博文は 朝鮮との関係を抜きに 話をする訳にはいけない 現在の日韓関係 日朝関係において歴史認識が言われるが この時代の史実は 日本 韓国 北朝鮮 の国民も正しく(政治的狙い抜きに)知っておく必要があると思う

西郷隆盛が征韓論を唱えて 却下されたが その後も朝鮮に対しては 強権的に働きかける世論が 存在していた 一方 国力で劣る朝鮮は 清国 に頼っていたが 日清戦争で日本が勝ったことにより 朝鮮での清国の影響力は消滅した 

また その頃ロシアの進出を阻止するために 1897年 朝鮮は 大韓帝国 と名前を変え 日本の影響を明確化した

その後 大韓帝国内の反日勢力は ロシアと結託し 日本を排除しようとしたが 1904年の日露戦争で日本が勝利したことで さらに日本の影響力は強くなった

1905年日韓条約により 大韓帝国は ほぼ日本の保護下に置かれることになった
この時 韓国統監府がおかれ 伊藤博文が初代統監に就任した

大韓帝国政府の後ろ盾として 反対派弾圧や教育 産業の振興に努力した この辺は 台湾総督で成功した児玉源太郎/後藤新平 方式に倣ったような気がするが とにかく統治としてはうまくいっていたようだ

しかし 山県有朋はじめ日本国内の世論は 朝鮮半島を領土とせよ との声が高く 大韓帝国の中でも 親日派あり 清国に頼る派 ロシアと結託して排日する派など百花総鳴の状況

伊藤博文は なんとか大韓帝国の政府を残し保護国として存続させるべく 政府要人との交渉に奔走していた

1909年統監を辞任した伊藤博文は 政府代表として ロシアとの交渉に出かけた際 ハルピン駅にて一発の銃弾により暗殺された 犯人は民族運動家の安重根で 反日活動の一環ということであるが 真実かどうかは 疑わしい

韓国の反日過激派が日本の象徴としての総督を狙うのは解るが 清やロシアよりまし とその頃 親日派も多数いた 日本と韓国で共同して政府を作ろう という提案もなされた

ロシアも満州の権益を狙わんと 実質的支配者の日本に対して圧力を強めていた

日本国内では 大韓帝国の政府存続を主張する伊藤が いなくなったことでますます 韓国併合の力が強くなってきた 1910年 韓国併合

そのころ アメリカは ハワイの後 フィリピンも占領 オランダは インドネシア フランスは ベトナム
列強は 権益目的の植民地化を 進めていた

日韓関係を調べ始めたら きりがない
加藤清正の朝鮮征伐 江戸時代の朝鮮通信使 西郷隆盛の征韓論 朝鮮戦争による米ソの占領 南北分離 ・・

いま韓国で 歴史認識を・ と言ってるのは この韓国併合の頃だけを挙げ 日本のために大被害を受けたので もっと史実を認識して態度で示せ(謝れ!)  ということらしい

私もいろいろ調べてはみたが その時代背景を見れば 当然の成り行きであるな という感想しかない
・・ 今のところ

少なくとも 伊藤博文が暗殺されずにいたら 韓国のためには 良かったのかな・・

  




樺山資紀

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樺山資紀(かばやますけのり) は 西南の役の際 熊本城で 谷干城のもと参謀長を務めていた

しかし 守備隊ではそう活躍の記録もなく 40日間 熊本城を薩摩軍から守り通した というのが 功績

西南の役後は 他の誰もがなったように 政府の要職を歴任  後に海軍大臣となる

日清戦争で海軍司令官として作戦参加中 新型の敵艦隊に追いつかれそうになった時 敵の旗艦の正面を突っ切って逃れた 前退戦法 は 語り草である

松方内閣での海軍大臣の時 第二回帝国議会で民党からの 海軍予算削減案に激昂

"薩長内閣などと悪口を言うが これまでこの国を安寧に保ってきたのは いったい誰のおかげか ! "

いわゆる"蛮勇演説" で議会は混乱 予算は不成立 民党の修正案が可決

これから わが国はじめての衆議院解散 に繋がった ことが有名

その後 初代の台湾総督に就任 台北に総督府を開庁 さらに 内務大臣 文部大臣を歴任した

実兄は 寺田屋事件で死亡した橋口伝蔵 曾孫には 白州正子がいる







黒田清隆

明治10年3月 田原坂 吉次峠の戦いで苦戦していた官軍は 有明海から船で上陸し 薩摩軍の補給路を断ち 背後から攻める作戦をとった

3月15日 黒田清隆 ( くろだきよたか ) 率いる官軍は 八代に上陸し 熊本城を包囲している薩摩軍を攻め 4月15日 熊本城へ入城した

その後 黒田清隆が育てた 北海道の屯田兵第一大隊が 小樽より百貫港に到着し 小島町に駐屯後 八代 人吉の戦闘に加わった

屯田兵の兵士達は 東北出身の士族が多く 戊申の役の恨みをはらすべく 意気揚々と薩摩軍を攻めたてた しかし 上官達はほとんど薩摩出身で なんとも不思議な雰囲気の戦いだったとの 史実がある

黒田清隆も もとは薩摩藩士 西郷隆盛とは 戊申の役で 一緒に会津 庄内 を攻めた 同僚である

函館戦争では 盟友 榎本武陽を降伏させ 助命嘆願に奔走した 榎本武陽は その後 黒田の忠実な部下となり 北海道の開発  樺太・千島交換条約の締結 に大活躍した

昨日の友は今日の敵 今日の敵は明日の友 知人どおしが殺しあう中で 葛藤も渦巻いていた・・


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その後 薩摩閥の第一人者になった黒田は 明治14年 北海道開拓使の廃止に伴い これまでの官営事業の民営化を推進することとした

これに伴い 様々な設備を 民間へ払い下げることになったが 黒田は 赤字収益を理由に 懇意の商社に 非常に安く払い下げた ( 1400万円の物件を 38万円で払い下げた と報道された)
 
これが 議会 世論の厳しい非難の的となり 特に長州閥の大隈重信が 激しく 黒田ら を攻めた

時の総理大臣 伊藤博文は 薩摩閥に対する攻撃と受け止め 策をめぐらし 政敵の大隈を 財政責任あり として議員辞職させた (明治14年の政変)

払い下げは中止となり 黒田も閑職処分を受けたが 有能な人は そのまま 終わらない

黒田清隆は 伊藤のあと 第2代内閣総理大臣になり 下野した大隈重信も 伊藤内閣で外務大臣に抜擢され その後 2期にわたって内閣総理大臣を 務めたのである


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田原坂で戦った官軍/薩軍 有明海を移動した黒田清隆 みんな 眺めた 雲仙の夕暮れ

今も昔も 変わらない

国の事業を 民営化して 財産を 特定の業者に 安~く 払い下げる

これも ね ・・






板垣退助

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板垣退助 (いたがきたいすけ) と聞くと 自由民権運動を提唱し わが国 民主政治の草分け のイメージがあるが その時代の指導者としての登竜門 討幕運動の戦いの武将 をも 当然 経験している

その中で なんと 板垣退助と近藤勇 が戦った と言う話は 面白い

板垣は 土佐藩士時代から鳥羽伏見の戦いに参加していたが その後 西郷隆盛の江戸攻めに随行し 天領であった甲州甲府城を 確保する任務 に 着いた

甲府に入る際 板垣は 策略をめぐらし " 我こそは武田信玄の家来 板垣信方の末裔なるぞ " と言って 甲州の地元民衆の支持を得 甲府城へ無血入城をしてしまったのである

板垣は系図上 信方となんとか つながりがあったようだが 本音は城の奪取作戦  実際 これまで代々 乾 (いぬい) と言う姓であったが この日に 板垣 と変えている

一方 幕府方は 鳥羽伏見で負けて江戸へ撤退していた新撰組にその奪還を命じた

近藤勇 土方才蔵ほか300人の軍勢は 途中 沖田の脱落もあって 甲州へ入るのが遅れ 先に甲府城へ入った板垣軍に対し 甲州街道 青梅街道の分岐点の 勝沼 に 陣を敷いた

1868年3月29日 戦いが始まったが 多勢に無勢(官軍は3000人)および士気の違いもあって あっさりと新撰組は敗退してしまった (甲州勝沼の戦い)


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その後の板垣退助は 西郷隆盛 木戸孝允 大隈重信 とともに 薩長土肥の総帥となり 政府の要職を務めた しかし 明治6年の政変で 板垣は 西郷隆盛の征韓論に同調 下野し 土佐へ帰った

ここから 自由民権運動を推進し 政党を組んで 最終的には総理大臣にのぼりつめることになるが 西南の役の時 なぜ西郷に協力しなかったのか この辺は調査不足 疑問のままである

有名なのは 岐阜で遊説中 暴漢に襲われ 負傷しながらも " 板垣死すとも自由は死せず " と言ったことであるが なんとなく 後からのフィクション の気が しないでもない

総理大臣時代 自分が提唱した自由民権思想も いざ総理として政権を運営するとなると なかなかやりにくい と思った に違いない

結局 政党の数の論理で政策が決定されるようになり 大隈重信と連立して隈板内閣( わいはん内閣 ) を組んだものの 内紛でうまくいかず すぐ倒れてしまった

後になって 民主政治の確立に貢献した ということで 100円札の肖像になった 見たことがない人もいるかもしれないが 九州では1970年ころまでは普通に流通していた

私が 初めて上京した時 銀座の喫茶店 "WEST "で100円札を出したら " ワー珍しい " といってみんな集まってきた 恥ずかしい想い出が ・・






近藤 勇

板垣退助から 芋づる式に 出てきた 近藤勇 (こんどういさむ)

和宮と結婚後 上洛する徳川家茂の警護 として随行し 京では 新撰組局長として 池田屋事件など 倒幕派の掃討に 尽力した


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板垣退助 に敗れた 甲州勝沼の戦い は そもそも 負けるべくして負けた戦い であった

出陣指令を出した勝海舟も 血の気が多い新撰組が江戸城に居ては 無血開城の妨げになる と考えたらしい

行軍する甲州街道は 生まれ育った調布 府中 日野 ふきん 子供の頃からお参りしていた上石原八幡神社 道場襲名披露試合を行った大国魂神社 の前も 通る  

当時 超有名人となっていた 近藤勇は 地元の大歓迎を受け まるで大名行列みたいであったという

そうこうしている内に 沖田総司の病気対応やら 地元名士の接待宴会やら で たった甲府まで行く間に 板垣に 先を越されてしまったのである

勝沼に陣を張っても 兵士たちは戦う意欲もなく逃亡者が相次いだ 部下の永倉新八とも対立し 土方才蔵も 相手の人数に対して絶対不利と直感したのか 援軍を頼みに行く といって相模に戻っていった

近藤軍は 100人以下となり 戦いも 数時間で決した  ただし 最初から 逃げ道はしっかり確保していた様で すぐに 八王子経由で 江戸に 逃げ帰った


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もともと 江戸城は居心地が好くなかったようで 近藤らの旧新撰組は 密かに流山へ移動し 陣容の建て直しを図っていた

しかし 官軍にとりかこまれ 我々は幕府公認の治安隊である旨 交渉しようと出頭したが 捕らえられた ここで 自分は近藤ではない と主張したが 元新撰組の加納鷲雄に見破られ 板橋の処刑場で斬首された 享年33歳

残った土方らの部隊は 布佐(現我孫子市)より 船で銚子まで移動し 会津戦争 さらに函館戦争に参加した


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手賀沼の付近を 走るたび  苦渋に満ちた 当時の 近藤勇 や 土方才蔵 が 思い出される




後藤新平

板垣死すとも自由は死せず ! と言ったかどうか分らないが とにかく 負傷した板垣を この時 治療したのが 当時 名古屋の病院長だった 後藤新平 ( ごとうしんぺい ) であった

なお 当時 江藤新平 ( 佐賀の乱を首謀 ) や後藤象二郎 ( 自由民権論者 ) など 似た名前の者も居るが これらは 別人である

治療を受けた板垣は この男は医者ではもったいない 政治家になるべきだ と思ったそうだ
しかし このブログシリーズに登場する人物は 皆 有能で 少なくとも 後に 大臣以上には なっている

はたして 広島で日清戦争帰還兵の検疫官として働いている時 陸軍参謀 児玉源太郎の目に止まり 児玉は 台湾総督 就任後 後藤を 台湾総統府の民生長官 に 登用したのである

台湾では 現地の習慣 制度を徹底的に調べ 現地の事情に合った経済改革 インフラの整備を行った
特に 農産物の品種改良 アヘン常習者の撲滅 には目ざましい成果が見られた

この辺は ただ やれ~! と言って鎮座ましましていた前台湾総督の"軍聖" と違うところである
イラクの米軍統治部隊も 見習うべきで あるな・・


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医者出身の後藤であるが 多彩な知識と能力で様々な活動を行っている

1906年南満州鉄道の初代総裁に就任 ここでは 大連 などの都市建設はもとより 清 ロシアとの交渉でも政治的手腕を発揮している その後 政府の鉄道院総裁時代には 鉄道全般の人事刷新も行った

関東大震災のあと 内務大臣兼帝都復興院総裁 として 100m道路など大胆な都市計画を提出した 予算が削られ 計画は縮小したが 山手通り 明治通り 昭和通り など今でも役に立っている

その後 逓信大臣 外務大臣 東京市長 を歴任 外交では特にロシアとの交渉に活躍  スターリンとも会見し日清露の共存繁栄を模索した また後の日ソ不可侵条約 の礎を築いた

台湾総統府時代から力を入れていた拓殖大学の創立に貢献 10年にわたって学長をつとめた

また NHKの前身 東京放送を設立 本格的ラジオ放送を始める 読売新聞の経営にも個人的に多大な援助を行った

さらに ボーイスカウト活動にも大幅に関与し 初代日本ボーイスカウト連盟の総長になった


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後藤新平が まだ ただの 病院長だったころ

1879年 相馬藩の藩主の言動が おかしい と家族が藩主を監禁し病院へ強制収用する "お家騒動" が起きた

家臣の錦織剛清 ( にしごりたけきよ) は " ただ酔ってろれつが回らないだけだ ! " 不当監禁として これを告訴 家族側も 誣告罪として逆告訴した (相馬事件)

後藤新平は 医者の立場から 当時の精神病治療法に疑問をもっており この事件にかかわって全面的に錦織を支持した 結果 後藤も有罪となり 収監された

明治の "ヘロヘロ会見事件 "は 擁護したほうが 負けてしまった






安場保和

後藤新平の育ての親と言えるのが 安場保和 ( やすばやすかず ) である

肥後細川藩出身 先祖は赤穂浪士の討ち入りで大石内蔵助の切腹の介錯をした安場一平である
安場は 幼い頃から時習館で学び 横井小楠に習い 門下生の四天王 と言われるほど優秀であった

戊辰戦争に参加後は 東北地方の参事を勤めていた 胆沢県大参事の時 後藤新平 および 斉藤実(後の海軍大臣)の能力を認め 書生として居住まわせた

岩倉使節団に随行 帰国後 福島県県令の時には 後藤新平に 須賀川医学校の世話をした

その後 愛知県県令となるが 後藤は安場を追って名古屋の病院へ勤めることになった
これは 後に妻となる安場の娘の和子が目的だった という噂もあるが・・


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安場は 各県の県令を歴任したが 後年は 元老院議官 貴族議員 北海道庁長官 も勤めた

功績として有名なのは 福島県県令の時の安積疎水建設である

中央政府の大久保利通の命を受け オランダ人土木技師ファンドールンを招いて 猪苗代湖から郡山安積地域に疎水を引き これまでの荒れた草原の郡山を一大穀倉地に変えた

当初は 船も通れる運河構想であったが 疎水として通水専用にし 実現を可能にしたのは 安場の提案と言われている

また 飯坂温泉には県費で 鋼鉄の橋 (十鋼橋)を建設し 地元の賞賛を浴びた

安場保和と後藤新平は まさに絵に描いたような師弟関係にあった 安場の忠実な後継者 後藤新平が死に際に最後に言った言葉

金を残して死ぬのは下である 仕事を残して死ぬのは中である 人を残して死ぬのは上である

私が死ぬ時は おそらく な~んにも 残さない  すなわち

上でも中でも下でもない  その他大勢 か ・・・




酒よ

♪涙には幾つもの 思い出がある

 心にも幾つかの 傷がある

 ひとり酒 手酌酒 演歌を聞きながら

 ホロリ酒 そんな夜も たまにゃ なぁいいさ


居酒屋でGuitarを弾き始める時 "つかみ" に この曲がぴったりと合う
友達と話しに熱中している人も "いいねぇ~" と こちらを注視してくれる

酒と音楽は 心と心をつなぐ ツール  私は どちらも好きで 良かった

そもそも 神代の昔から 神に捧げるのは御神酒 結婚式で夫婦の契りを結ぶのは三々九度 戦っていた武将が仲直りする時も酒宴での一献  酒は歴史を作ってきた 煙草だとそうはいかないが

酔っ払って財務大臣の座を降りた人がいるが 別に飲むのが悪いわけではない と私は彼を擁護したい

国際会議においては 胸襟を開いて忌憚なく話し合う徴(しるし) として酒が置いてあるのは 当然である
国賓を迎える宮中晩餐会でもしかり 参加者は乾杯し可能な限りゴックンと飲み干すのが礼儀である

本質的なことは 会議の中でちゃんと仕事をしたか ということであり 記者会見でも 記者はその辺を確認するのが仕事である 大臣が疲れている状況を 醜態をさらしたと報道する必要はない

記者たちも本人が疲れていて飲んでいることも分かっていたはず うまく取り繕えば良いのに "お! これは絵(記事)になる" とそのままヤラセたんじゃないの それは記者魂の履き違えじゃないのかね~

私も 国際会議や演奏会等で何度か欧米へ行っているが とにかく疲れる 特にアメリカ圏は時差調整が大変 歩いてても身体全体がだるく 止まったらそのまま寝そうになる あの頃はまだ若く スケジュールもゆっくりしていたのでまだ良かった (今度心配な予定が入ってるが・・) 

最近 カラオケの点数が低い原因も やっと解った しらふで行くので声が伸びない やはりカラオケは酒の力 二次会で行くに限る

私の血液型はA型 真面目で几帳面 そして繊細 (ホントだってば!) 演奏会では とにかく あがり性である
その対策として 演奏前には必ず酒を飲む 適度に緊張が和らげられ これまで多くの修羅場?を乗り切ってきた 演奏後は 緊張の疲れを癒すため 当然 また飲む

普段は 気になる女性が傍にいても なかなか話しかけれない
 こう言ったら たぶん こんな返事が 返ってくるから そしたら・・ 
なんか考えているうちに 彼女は離れていってしまう

あの時 少しでも酔ってハイだったら さりげなくすっと彼女の懐に入って行けたのに
何を今さら・  過ぎたことを いつまでも くよくよ考えるのも A型 か ・ 



♪ 詫びながら 手酌酒  演歌を聞きながら
  
  愛してる これからも  わかるよ なぁ酒よ





いつまでもいつまでも

大変な熊本での介護だが 旧知の友人に会うのは 本当に楽しい 実に 45年ぶり
ネクタイ組は "長"がついて 今でも 大活躍 ジーパン組は 大手電気会社をリタイヤして 今は 悠々自適


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高校の頃 皆 音楽が好きで 集まってバンドを 組んでいた
普通のアコギターのみで ベンチャーズやビートルズ PPMなどのフォークにチャレンジ

グループのテーマソング ザ・サベージ の曲を 歌う
3度上下のバックコーラスも 当然 覚えている


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♪そよ風が 僕にくれた
 可愛い この恋を
 いつまでもいつまでも
 離したくない いつまでも

 花のような 君の口もと
 やさしく 包んで
 僕を見つめてくれた
 忘れられない いつまでも




天神にて

福岡市の中心 天神交差点に立ってみた 大学の時 以来なので 40年ぶり

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あれ?以前ほど にぎわっていないな 渡辺通り方面の人だかりは 宝くじの列か

シンボルは 岩田屋だったが 看板がない 中身も 駅の一部になっている


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岩田屋は 駅ビルの向こうにあった 三越とか大丸 ソラリア等が 集まって中心がそちらに移ったみたい 

対角線の 三菱銀行だったか 地震の時 ガラス窓が落下したので有名になったが 今度は大丈夫かね


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この辺の人は みんな地下にもぐっているようだ 地下鉄の駅や地下街もあるし

交差点の真ん中から 赤坂方面を望む 住友信託は昔の通りでホッ


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学生時代 ビラ配りや ハンガーストライキをやった 西鉄天神駅乗り場

新天町入口でもあり 昔は 人でごったがえしていた


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あのとき この場所で 勤め帰りの彼女と 待ち合わせていたっけ

頭をめぐる音楽は 竹内まりや の ”駅”  若かった頃の ほろ苦い 想い出


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50m道路は そのころ やたら広い道に思えたが 今みると 普通の道 だね・・




沿岸道路

建設中の 有明海沿岸道路が 一部開通していていたので 通ってみた

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大牟田付近からは 経ヶ岳 多良岳 が見える

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左には 雲仙 が 悠々と

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この付近は 夕焼けが美しい

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一番星 みーっけた ・・・




京急線で

京浜急行の 新型車両と旧型車両 どちらも赤白のツートンカラー 最近はやりのステンレスでないのがいい

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上京して初めて乗った私鉄が京浜急行 当時 新子安に住んでいたが 国鉄と私鉄が 統一ストライキをやっても 京急だけは 絶対動いていて 頼りになった

軌道幅が広く 車両が ゆったりしているのも 好感が持てる

横浜駅の近くは 急カーブが多く 乗り心地は なんとなくジェットコースターみたいな 雰囲気がある
そこを あまりスピードを落とさず ギュギューンと行くのが また好きだ


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これに乗って 演奏会を やったので ついでに 紹介 しま~す

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毛糸の帽子 が いいでしょ ・





東京駅で

以前食べた美味しい "かりんとう" が 東京駅しか売ってないので 買ってきてくれ~ ということで 東京へ
 
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しかし 駅も電車も 最近 立派ていうか きれいになってきたね~ 表示も液晶とかでスマートになったし

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しかし どうしても気に入らないことがある 電車の外パネルの凹凸 ・・ステンレスのスポット溶接跡

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昔の職人だったら こんな仕上げは しないね ステンだろうが 削り出すか たぶん パテで埋めて きれいに 塗装するか

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そうこうしている間に 銀の鈴 に到着 店は にぎわっているが なんとか買えそうだ

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えー 別のところで 並んで待たにゃきゃ ならないの あらー この列は なんじゃ- 

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20分も並んで 待つつもりはない ! 本日は あきらめ ー ・・



グライダー

(私にとって)膨大な金と労力を使って 熊本まで往復し 親の介護を行っている

ま しかし 今 金を使うのを惜しんでもしょうがない 身体が動くうちは 動いたほうが良いし


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家では なかなかできないことも 介護でここにいると できること も ある

20年前に買った ラジコングライダー これまで 組み立てる暇がなくて 押入れの奥にしまってあった


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食事を作る間の暇は ぽつぽつと 沢山ある 一ヶ月もあれば なんとかなるだろう

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バルサ材を図面に合わせ ていねいに削り 接着剤で組み立てる これこそ "少年時代" だね

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翼紙を張って ラッカー塗装を すれば 完成だが あえて木材の感じを残して 終わり

そのまま 九州から 高根の里の 別宅に 運び

飾っている








淋しいね・

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朝から隣の棟が騒がしい 団地の役員の人が集まっている

やがて パトカーも 来た

4階の住人が亡くなっていたらしい

孤独死?事件?

それ以上は 詮索しないので 不明

昼過ぎて 冷たい雨が 降ってきた


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手すり

我孫子市の某公民館  階段で おもしろい 手すり を発見!

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コボちゃん だったら 絶対 触りながら 降りるだろう ね ワーイ とか言って オチ も 想像できそう

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あまり 必要のない人も 使っていました