G3は今日も元気

典型的な団塊オジさんの自己満足的日記・・早期退職して悠々自適なのだ・・内容は・音楽雑論、マンドリン、二胡、百名山行、花と菜園、旅あるき、原子力と放射線、別荘暮らし、熊本で介護、猫の石松など・<府中市在住> リンクフリー

熊本と言えば

熊本と言えば ・・で まず思い浮かべるのが 熊本城  ま 私の庭みたいなもんですな

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次に出てくるのが 兎追いしかの山・・ の金峰山  ここも うちの庭の続き ですな

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そして これも 熊本   熊本北警察署

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これも 警察  坪井交番

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官公庁ばかりではない これは 保田窪団地

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同じく 新渡鹿団地

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三角港の設備 や 道の駅のトイレ も

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当然ながら 県立美術館は 先々進デザイン

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阿蘇の小さな町でも・・ 内の牧交番

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白川に架かる橋 そしてその背景も含めて アート

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首相だった 細川護煕氏が 熊本県知事時代  "建築 都市計画を通して文化の向上をはかる"
をコンセプトに 「くまもとアートポリス」 プロジェクト を立ち上げた

以来 4代の知事に引き継がれ 熊本各地に ざん新なデザインの建築が構築された

現在 約70件の事例がある

日本の建築学界のみならず 海外メディアには大変好評であるが 国内では デザイン重視の建築に
とかく 非難の声が大きい


私は こういうの いいと思いますよ ・・ さすが 細川さん  ですね




















優雅ニャン

ここは 当麻寺 近くの 高雄寺 (たかおでら) あたりは 幽玄の世界

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すべてが古い 千年の古都  本堂もなく 石碑のみが

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ここに なぜか ニャン子がいた ノラニャン評論家の私にとって 願ってもない 機会

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一番人なつっこい ドラ 容姿を見ると ナントカ一家の連中とは明らかに違う これはノラではない

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仲間を集めてくれた エサを望んでいる素振りはない

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アンタネー 写真ヲ撮ルンダッタラ アチキノ側室ヲ 紹介スルヨ  美人ダロー・・

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確かに ・・ 有栖川宮家の血を引き継ぐ 高貴な お方さま で あらしゃいました















まだ じい散歩

当麻寺 を出ても じい散歩 は 続きます 門前の雰囲気も いいですね

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近くの普通の家 や 建築会社 どこも 玄関先に 花が飾られています

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さて 予定では ここから 二上山に登る ことも考えていたのですが   やや天気がね・

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頂上には 大津皇子 のお墓があるとか 

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一時間足らずで登れるそうなので とにかく 登山口の方まで 行ってみるか

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かなり登ったところにある 傘堂 (かさどう) いかにもそれらしくて 面白い

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登山口のある貯水池まで来たが 二上山の頂上は雨雲に覆われている

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登山はあきらめ 戻ってきた 高雄寺 の近くから 奈良の都を望む

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この天気では 衣も干してないが 雨の香具山 も 見渡せる


















当麻寺

ボタンの花が終わった 当麻寺 (たいまでら) は 粉ぬか雨のなかで ひっそり

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訪れる人も まばらな 静かな境内を 思う存分 歩き回りました

今回は よけいな説明は 不要でしょ ・・











じい散歩

介護帰りの奈良の旅は 前回 薬師寺と唐招提寺 今回は 香芝ICから少し南の地域を行く

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相変わらず かわり映えのしない 毎回同じよーな 散歩姿 ま 独りだからねー 出会いも期待できないし

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出発地は "ふたがみ道の駅" 道路から奥まったなんとなく少し変わった所でんな

山に登る人や地域の農産物販売 地元工場の靴下10足500円など オバさん達でかなり賑わっていたが


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白鳳ロマンの里 ていうのか とにかく歩き出す 雨が降っているが 傘をさす程ではない

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万葉の歴史を感じる 風情ある 普通の田舎道  こういうのが 私の好み

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これでも国道 ?  まぁ いいんじゃないんでしょうか 車は向こうのバイパスを通ってるようで

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10分ほど歩くと 石光寺 に着く 由緒ある寺 らしいが 中は写真だけ 周りを一周して 先に進む

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ずっと 普通の民家だが みんな 周囲の風致に合った すてきな家 ばかり

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維持管理だけでも 大変だろうな 景色を保存してくれる奈良の人々に 感謝

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ここは 中将姫の墓 とある 一つの目的としていたお寺さんも近い

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やがて ひょっこり 当麻寺 ( たいまでら ) に着く













友達の輪

そもそも 積どうえい のコンサートに行くことになった そのいきさつは

一昨年 私が母親の介護のため熊本に帰省した折 台所仕事で指を怪我し 近くの病院で治療した
その時 同じく母親の介護で熊本へ帰ってきていたF君に45年ぶりに偶然出会った
彼も介護の疲れで体調を崩し同じ病院に来ていたのだ

彼は私と違って人付き合いが好い 彼を通じて同窓会に参加したり旧友と再会したり その後交友の輪が
広がっていった

いろんな人と 一緒に飲んだり カラオケで歌ったり 介護のストレスを 大いに発散させることが出来た
昔の友人の消息も知ることが出来たし 私の消息も昔の友人に知らせることが出来た

親の介護で苦労している人は多い
私ももし彼と会わなかったらひとり悶々と介護に疲れ はたして正常でいられたかどうか

積どうえいは F君と同じ会社に勤めていたことから 彼が今でも音楽で活躍していることを知り 昨年から
ずっとライブコンサートへ行く機会を狙っていた

 
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気の置けない友人たちばかりの 屋外バーベQパーティ ということで まずは 飲む 食べる

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積どうえいの音楽仲間 親友 で 急逝した O君は 実は私の 中学 高校 の同窓でもある
彼もバンドを組んでいた ということで 今回 彼の音楽も聞けるかな と思っていたのに・・


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そうなれば 追悼の意を示すべく この私がなにかやらない訳にはいかない (勝手な論理だナ)
積クンの迷惑も顧みず 無理やりしゃしゃり出て 一曲やることになった


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急遽 歌ってくれるパートナーを確保 彼女は O君と小学校で同窓 そして F君と同様に
介護で苦労している熊本での仲間だ 一緒に飲んだ時 カラオケが上手かったので誘った
事前練習は 音程確認と進行確認 一回合わせたのみ


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伴奏とMCは私が担当 話の内容は O君の想い出 それに介護の苦労話
清水由起子事件の直後でもあったし とにかく まー 湿っぽい話ばっかり・・


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この広い野原いっぱい 空に星があるように 白いブランコ 今日の日はさよなら 
予定の4曲は 練習もしてない割には なんとかうまくいった (と思う) 


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歌う予定もなかったアンコールも さらに 最後にもう一回歌うことにもなった

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はたして我々が出たことは 好かったのであったろうか ・・ 

積クンや彼のファンに 単に迷惑をかけただけ ではなかったのでは ・・

ここの ワンちゃんも なんかそういう顔をしている

星になった O君のために 何かしてやりたかった 

これは達成できて 満足はしている
















積どうえい

積どうえい は 熊本では ちょっとは知られている ミュージシャンである
その活躍状況は ブログでも数多く登場する
<ワンギターライブ http://www.k3.dion.ne.jp/~seki/ >


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毎年やっているという彼のライブを聞きに 仲間と阿蘇根子岳の麓の とある別荘に 出かけた
別荘の持主は 彼のサッカー部の後輩 この別荘で旧交が温められ ワンギターライブを育ててくれた


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積クンと私は高校の時の同級生 ほとんど話したことはなかったが
NHK喉自慢に出演したりしていたので 音楽が好きということは知っていた
あの頃は だれも皆 ギター片手に 歌っていた 当然 私も


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彼は 卒業後 銀行マンとして活躍 親の介護のため熊本へ戻り 硬い仕事をしながら
一方ではひとりギターを担いで音楽活動を続けていた
この辺の音楽経歴は 私に少し似ている


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PAは本格的 路上ライブの場合 ホールの場合 等 その場にあったシステムを 組み上げる
一方 別荘持主も 7年目ということで 会場設営や バーベQの準備に 抜かりはない


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RKKのチーフアナウンサー(実は彼も積クンのサッカー部の後輩)の司会 という豪華なスタッフで ライブの始まり
今回は 一昨年参加した親友 そして急逝したO君の追悼も加ね 全員の黙祷から始まる


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彼は これまでは仕事と音楽の二足のわらじであったが 定年退職し
4月から音楽活動( ライブ活動 音楽プロデュース ギター講師) に専念している
私も含め 同年代は こういう人が多い


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はじめて彼のテクニックを目の前で見たが 上手い
路上ライブを長くやった人は 聞かせよう ! という心がある
ふだん 譜面どおりに弾くことに窮々としている私も見習わなければ


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弾き語りとギターソロ 私もレパートリーに加えたい曲がでてくる
フォークギターも 12弦ギターも なかなかいいね
ビートルズからスタンダードポップス 彼のオリジナルの曲も沢山 曲間の語りも味がある


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降り出した雨もなんのその 熱気は続く しかし 実はこのあと 私がしゃしゃりでることになった(次回参照)
これでやや水を注したかもしれないが 積クンの休憩タイムということで許してもらおう


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日が暮れて ますます盛り上がる 天草ハイヤ節では みんな踊りだす

阿蘇の山々に歌声がこだまし 終わったあとも 別荘では 遅くまで 家族や旧友との語らいが 続いていました
















二重の峠

阿蘇の外輪山 立野の近くに 旧街道の跡が残っている場所がある

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今は かなり整備されて 案内板や復元された石畳など が ひっそりと残る

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私が小学生の頃聞いた観光ガイドでは

 「昔々ヤマトタケルノミコトが阿蘇のカルデラに溜まった水を外に流そうとして外輪山を蹴飛ばしたがここは山が二重になっていて崩れなかった そこで近くの立野あたりを蹴飛ばしたらやっと山が崩れ水が流れ出して現在の白川ができた 以来ここは二重の峠(ふたえのとうげ)と呼ばれるようになった」

50年以上も前の記憶を どうしてこうはっきり 覚えているのだ・・ !


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この峠は 加藤清正も何回も通ったことだろう 江戸時代 細川家も 参勤交代のコース であった

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明治の文人 徳富蘇峰 徳富蘆花 の兄弟も この景色を愛でていたに違いない

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ところで・

ここの雰囲気は 水戸黄門のロケ地として いいんじゃないかい













お気に入りの場所

熊本への介護旅行の帰り  いつも 訪れる お気に入りの場所

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地名は 特にない しいて言えば 阿蘇の 大観望展望所 の近く

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ここは 当然 阿蘇の外輪山 カルデラ 涅槃のお釈迦様の阿蘇五嶽 の眺めがよい

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それに加え 久住連山 飯田高原の のびやかな草原が 気に入っている

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いつも ここで 近くの道の駅で買ってきた お弁当を広げる

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外に出て食べてもよいが サンルーフを開けシートをリクライニングにすると まるでホテル気分

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近くの 大観望レストハウスは 景色に不似合いのBGMと 観光客の喧騒の世界

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気ままな車の一人旅だからできる  贅沢

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一ヶ月も介護を一生懸命やったんだから

このくらいの ご褒美は ・

許される でしょ





はげの湯

熊本県小国町を過ぎると 大分県九重町 私の好きな山 湧蓋山(わいたやま) が ひときわ大きい

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ここも 周りは 温泉 また温泉 ・・ よーし 温泉の はしご だ !

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山の眺めが良さそうな 名前も私にぴったりの たちより湯 に立ち寄る 入湯料500円

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源泉は バカ豊富らしく 温泉熱蒸し器も 自由に使える

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さて 風呂は・・ 期待通り ブルーの炭酸泉 うたい文句は 毎日色が変わる七色温泉

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最近の温泉施設は あか抜けてきた 黒川温泉も近い 湯治風の宿もあり 旅人のニーズに応える

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なんといっても ここは眺めがよい そして 連休明けの平日昼間  だーれもいない

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さっそく 浸かる もちろん 私ひとり ですよー 

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ちょっと熱いので出たり入ったり 出ても日光浴で背中が熱い この際 ふだん陽の当らない所を・・

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湧蓋山に新緑が映えて 広いかけ流し温泉にひとりゆっくり浸かる んー 贅沢 贅沢・・

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♪ ここは~ 九州 大分~ はげの湯 ・・


















山川温泉

親切な製材所の所長さんが ベンチの材料を工面してくれた ここ小国町は・・

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阿蘇 九重の火山群に囲まれた 温泉の名所 でもある

ココを 通ったからには 温泉に入らないわけにはいかない 国道からわき道へ入る


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道の駅の案内所で紹介してくれた 鄙びた地元の人だけの湯  ほたるの里温泉

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玄関を開けると 誰もいない 300円を ポストに入れる

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湯舟にも 誰もいない よし カメラ OK !

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こんこんと湧く 青く澄んだ 炭酸泉 ちょっとイオウのにおいがする

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これこそ 正真正銘の かけながし温泉 当然 ゆーっくり入りました 全身は見せられないけど

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風呂あがり 涼しい風に 周囲の景色も 心地よい

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本当に 心が洗われる 熊本県小国町は 山川温泉



















小国からはるばる

ここは 熊本県の北の端 小国町(おぐにまち) 

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小国町は " 小国杉 " で有名  町を通れば 美林の連続

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山の中の製材所にとびこみ 端材を分けてもらいました 親切な工場長さんに感謝

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さて 九州から はるばる船に乗って

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着いたところが 山梨県の 高根の里

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置いただけで 豪華な ベンチ となりました










5月は

都忘れ の花 が 奥ゆかしく 咲いています 

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側では キンレンカ と キンセンカ が 我こそは・ と 主張しています

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そうそう 畑も ちゃんと 見ないと  まずは じゃがいも の 害虫を 指で飛ばし

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コマツナを少し収穫して 空いたところに ナス を 植えました

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ジャーマンアイリスなどのアヤメ類も もうすぐ見ごろ

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梅雨が来る前に やっておきたいことが まだまだ 山ほど

忙しくなります ・・












5月なかば

高根の里 の 5月 介護の九州遠征の帰り  あざやかな 緑 に 囲まれて 

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ハナミズキの花 も なんとか 見ることが出来ました

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阿蘇で買ってきた もみじ を 植えました 将来の 風情 を 期待

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久しぶりに 刈払い機 で 雑草の上半分のみを 

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雑草も 切りそろえれば 芝生 みたいで いいんじゃない ですかい ・・










なみだ目 発見

特に意識はしてなかったが なみだ目 のトラック 発見

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しかし 近づくと なんか ちがう  目は泣いているが 口が笑っている

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コイツは 完全に 笑っているね ・・






花盛り

4月13日でしたが 桃の花が咲いています 今年はちゃんと袋をかけて おいしい桃を

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昨年 苦労して 植えたのが 出てくると 楽しい ・・ ね









4月なかば

高根の里の 4月なかば 雑草も まだ 花が いっせいに 咲きます

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昨年 植えた しだれ桜 に ぽつりと 花が 咲きました














明治の偉人

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ホームページに載っていた一枚の写真  本当にびっくりした こんな写真があったのか
幕末 長崎のフルベッキ宅に集まり 世界情勢の講演を聞いた後の記念撮影 ということである

幕末から明治の日本を動かした歴史上の人物が勢ぞろい 

驚いたのは 40番の明治天皇

明治天皇は このブログでも紹介したとおり "替え玉" の疑いがある 前列真ん中にいるものの 明らかに他と同等の扱いで "天皇の写真" ではない  左ききの刀持ちで 側の岩倉具視が心配そうに見守っている どう見ても替え玉の大室寅之助 この写真が長い間公開禁止であったのも 納得できる

10~15 は 薩摩藩士が一同

西郷隆盛の写真はこれまでないと言われていた 上野の銅像とはかなり違う もちろんあの銅像も想像で作ったらしいが 小松帯刀は真面目なおぼっちゃんタイプで"篤姫"どおり 薩摩勢が真ん中にいるのも当然 


なぜ一番前の中心に居るの

39の広沢真臣 長州藩士で維新ではそこそこの活躍はしているが 岩倉具視と大室寅之助の友人程度が現在の評価  41の岡本健三郎は近江屋事件で坂本竜馬と最後に会った土佐藩士で目立った活躍はしていない

端にいるのは

1の勝海舟や23の森有礼は ここではやや控えめに端に位置している 5の江藤新平はいかにもキカン坊 反乱を起こしそうな顔 35の桂小五郎や43の坂本竜馬も目立ちたがり屋の感じが受け取れる














 

浄化槽検査

連日のいい天気で 外作業により身体がガタガタ 浄化槽の検査で 一時の休養にはなる

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浄化槽検査協会と名乗る人が 丁寧に説明しながら 機能確認 汚水検査等 を実施してくれた

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はじめてのぞく浄化槽内部  こりゃ 立派な プラント設備 だね

技術系としては なかなか 面白かった















太陽光発電

高根の里の北杜市は 日本で一番日照時間が長い地域である 実際 いい天気の日が多い

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この別宅を基本設計する際 当然太陽光発電の導入を前提に入れ 南向きの大屋根構造とした

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設計者のWADA氏とは 冷暖房方式で一部対立したが 省エネの方針は一緒 当方の意見を大幅に取り入れてくれた 彼のブログ ( http://www.studiopeak1.jp/) で ステップフロアの家 として紹介されている

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ところが 当時 太陽光発電の補助金が打ち切り 今年 復活したが 業務用や別荘はダメ とか 期限付き早いもの順とかで 設置は当面延期 

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補助金が出たにしても 約300万円の設備費に対して 20~30万円程度で 焼け石に水 投資回収に20年以上かかる これでは普及しない 省エネ大国の日本としては 情けないねー

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我家の富士見風呂から見える邪魔な電柱が無くなれば 景気浮揚の金を使ってもよいが・・ 

え?  カンケーないか




中華民国

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1912年1月1日 香港に居た孫文は 宮崎稲天 や 山田良政の弟 純三郎 に迎えられて 南京へ入った

そして 列国に向かって 中華民国の成立を高らかに宣言した

総統就任式には 犬養毅 頭山満ほか 多くの日本人同志も参加し 感激を分かち合った

1912年3月 孫文は 清朝が退位し政権を放棄するのを条件に 臨時大総統の座を 袁世凱に譲るが 袁世凱 は 孫文ら改革派を追放し 専制政治を敷き 自ら皇帝と名乗って中華帝国を作ってしまった

1921年 袁世凱が死んで無政府状態になった中国の状況を見て 孫文 は ロシアのコミンテルン さらに生まれたばかりの中国共産党とも 手を組んで 広州に 政府を 樹立した

しかし 右腕の蒋介石らの不満もあり この政府は失敗に終わった (第一次 国共合作)


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1937年 日中戦争が始まる

このとき 蒋介石の中華民国政府は 本拠地を南京から重慶に移し 日本軍と戦った

南京には 日本軍の支援を受けた 汪兆銘 が政府組織を設立し 日本との和平画策を行っていた

1945年 日本の敗戦により 蒋介石の中華民国が 正式な国家として 戦後処理の会議等に参加した


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1945年 日本の台湾領有放棄により 蒋介石は 南京にて 台湾の領有を 宣言し 台湾に 行政公署を 設置した

しかし 公署の要職を 本土の外省人が独占した ため 本省人(台湾人)の反発を招き 1947年2月 民衆が蜂起する暴動 が 発生した ( 2.28事件 )

これに対し 蒋介石の政府軍は 台湾の知識人 親日派 共産主義者を重点に 徹底的に弾圧した
この時の 処刑者は 数万人にも及んだという

以前から続いていた 中国共産党との内戦は 日本との戦いのあと 再発し ソ連が支持する共産軍と 米英が支持する国民党の 代理戦争の様相を 呈してきた

1949年 4月 共産党軍が南京を制圧し 1950年 蒋介石は 弾圧したばかりの台湾に逃れ ここで 中華民国の正当性を主張した


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1978年 交通事故により政界を引退した 蒋介石にかわり 息子の 蒋経国 が総統になる 米ソ冷戦中のアメリカの指導等により 産業育成と政治の民主化を推進する

1988年 蒋経国のあとを次いだ 李登輝 は 一党独裁制を廃し議会の民主化を行った さらに
これまで 「我々が中国の唯一の政府である」 から 現実的な 台湾独立路線を主張した

そして 彼は日本の統治時代を評価し 日本を手本にして台湾内の 教育改革 産業育成 マスコミの自由化など 民主化 と 経済発展策 を 積極的に推進した

2000年 総統になった民進党の陳水扁 は 李登輝の あまりにも日本寄り を 是正したものの 台湾独立はすでにまぎれもない事実とし 中国本土と対立した また経済的には東南アジアとの経済交流を進めた

2008年 総統になった国民党の馬英九は 台湾独立より 実質的な経済発展に重きを置き 三通政策 ( 通商 通航 通郵 ) により 大陸との交流をさらに積極的に推進している


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その国の歴史を調べると その国の国民感情がわかってくる

日本は50年にわたり 台湾を植民地とした そこで 台湾人のため インフラ整備 教育 産業の育成を行った しかし 差別もあり霧社事件など 反乱の弾圧も行った

日本は革命家 孫文を支援した 蒋介石とも当初友好関係にあったが 戦争で戦う結果となった

周恩来は日本に留学し 毛沢東も日本で発刊される情報誌を読んでいた その後 日本との戦争 東西冷戦 大陸の中華人民共和国は ソ連の影響を 受ける

一方 大陸から逃れて台湾に政権を作った外省人の国民党に対して 台湾の人は 2.28事件の恨みは忘れていない


現在 台湾での日本人への感情は 比較的良好であり 特に日本時代に育った人はその時代を懐かしむ者も少なくない

先人の努力に感謝し 明日から 台湾へ親善演奏会に出かける

日本の マンドリン音楽 を 楽しみにしている台湾の人々のために  ・・ !














三民主義

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孫文が提唱した革命の基本理論 三民主義 ( さんみんしゅぎ ) とは

その 1 民族主義

当初は 満州民族の清朝を倒し 漢民族の国家を作る
後には 欧米列強の半植民地状態からの脱却と 他の民族との共和 を意味するようになった

その 2 民権主義

主権在民で 5権憲法 ( 司法 立法 行政 官吏の考試(採用) と 官吏の監査 ) による共和国設立
を意味する

その 3 民生主義

国家主導の近代化 と福祉の充実 地権平均の原則で 大土地所有や独占資本を 制限する


ところで

孫文の妻 宋慶齢 は 孫文の死後 中国本土に残り 中国共産党の大幹部に君臨した

また 蒋介石の妻である妹の 宋美齢 は一緒に台湾へ渡り 蒋介石の死後はアメリカに滞在し 反共運動を続けた

毛沢東が生んだ 中華人民共和国は 三民主義の意向に沿って  その後

一党独裁の強力な政府を作り 大資本を制限し チベット 新疆ウィグル地区の統合で民族の共和??

を 図ってきた


しかし いまだ 人権の軽視 自由の制限 が見られ 国際社会では 成熟国とはみなされていない

それに比べ 台湾では 一党独裁もなく アメリカ的自由も尊重されており 経済的実力もあることから 今後 台湾が本土に吸収されて 現政権が消滅することは ない と 私は 確信する

ところで

台湾の国歌は "三民主義" という タイトルである 

歌詞と 現状が 合っているか な ?









漢奸

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漢奸 (かんかん) とは 裏切り者 の意味である

正確には 漢民族に対して背信行為を行った者 の意味であるが 中国では これまで 国の方針に逆らうものは おしなべて こう呼ばれ 非難の対象に なってきた

日本で言えば 非国民 売国奴 ていうところでんな

中国で数多く使われたのは "日本に協力する中国人" であり これまで ただちに処刑されたり 裁判にかけられたりしていた

主な人物としては

愛新覚羅蒲儀   清朝最後の皇帝 後の満州国の皇帝
川島芳子      清朝粛親王の皇女 日本軍に協力し 「男装の麗人」といわれた
汪兆銘        日中戦争中 日本寄りの南京政府を設立した
幸顕栄        1895年日本軍の台北入城を要請した

一世を風靡していた李香蘭(山口淑子)も漢奸の疑いで訴追されたことがあった

日本でも 戦争中に 非国民 という言葉があったが 往々にして 時の権力を持った政府が 反体制派を抹殺するために使われる ことが 多かった

北朝鮮では 将軍様を尊敬しない者は処刑される 韓国でも 戦時中の日本への協力者狩り を いまだに 続けている

このような 魔女狩り的裁判では 冷静な判断が行われず 多くは 不本意のまま 虐殺されている と 思われる


虐殺といえば 中国は 日本軍の南京大虐殺で百万人が死んだ と執拗に宣伝している

実際 銃や剣で短期間に百万人も殺すのは 物理的に無理であり 私は その時代の通常の出来事であったのでは と思う

ナチスの収容所では 流れ作業式に毒ガスによる大量殺人を行ったが それでも あの期間で 300万人程度である 原爆も使った米軍の日本空襲でも 犠牲者は全てで 400万人程度である

南京虐殺を認めない わけではないが 犠牲者の膨らみは どう見ても 反日教育の感が強い

そもそも 中国では 孫文の死後 日本軍との戦いよりはるかに長い間 南京を中心に内戦が続いていた

国民党の蒋介石と共産党の毛沢東の争いでは 数千万人以上が処刑された と言われている

また 毛沢東の文化大革命では 飢饉などもあったが 反対派弾圧により 一千万人以上が死亡した とも伝えられている

中国の傀儡政権であった カンボジアのボルボト政権は 国内で 反対派弾圧のため 数百万人を処刑している

とにかく 中国(周辺)では 人の命は 限りなく 軽い

1937年 日本軍は南京を攻めたが 孫文と親交があった 日本軍の司令官 松井大将は 孫文の墓 中山稜に戦火が及ばぬよう厳令し 稜を保全した その後 松井は 日支両軍の犠牲者の冥福を祈るための碑建立などの活動をした しかし 東京裁判では 南京司令官ということで死刑になった


今日の記事は 殺されることばかり ・・  

だれも知られず あっさりと まとめて 殺された人の怨念 が 漂ってきた

漢奸 非国民  ほんとに イヤな言葉 だね 

もう お互い 殺し合い は やめようよ ・・

















孫文 日本にて

29孫文と九大01

この 孫文 の 書 は 九州大学の 総長室に 掲げられているものである

1911年 3月19日 孫文は 頭山満の玄洋社に 立ち寄った後 九州大学医学部 を 訪問し 大学・病院を 見学した
革命家の孫文は また 医学博士でも あったのだ

夕方 の講演で 「中国の発展は 科学技術の習得に負うことが大きい 先進国の日本の支援を 期待している 両国の親善が深まることを 切に願っている」 と述べた

しかし その後 日本と中国は 孫文の言った 真反対の方向へ進んでいく ・・

孫文は この時 九州大学のほか 宮崎稲天 頭山満の 案内で 九州各地を 視察している

  宮崎の生家(荒尾市) 頭山の玄洋社(福岡市) 八幡製鉄所 三池炭鉱

  明治専門学校(九州工大) 三池工業学校(大牟田市) 済々黄高校(熊本市)


29孫文と九大02

この 書 は 民主党の岡田かつや氏の実家(三重県)に飾られているものである

HPによると 孫文の日本亡命時 日本で孫文を支持する団体がおり その人たちへのお礼で書いたものらしい

次に 

孫文は 亡命中 美人三姉妹で中国で名をはせていた 宋姉妹の次女 宋慶齢 と新宿の梅田邸で結婚式をあげている さらに ・・

その短い期間に 日本人の妾 とのあいだにも 子供をもうけている

本業の革命は なかなか成功しなかったが 子作り に関しては 速攻 即断 百発百中 


人の心をつかんで その気にさせる 天才 孫文 の 一面





















宮崎白蓮

孫文の日本での活動を支援した 宮崎稲天 の息子に 宮崎龍介 がいた

龍介は 東京帝国大学在学中から 労働運動に傾注し 吉野作造 大山郁夫 らとも 親交があった

1921年 28歳の龍介は 35歳の 当時人妻であった ある歌人と 福岡市で 運命的な出会いをする

彼女こそ 「大正三美人」 「筑紫の女王」 など センセーショナルなマスコミ記事で 時代の寵児となっていた 柳原白蓮 ( やなぎはらびゃくれん ) である


30宮崎白蓮01 柳原 白蓮

白蓮は 1885年生まれ 本名 華子 (華 は正しくは火偏がつく)  大正天皇の生母 柳原愛子 ( なるこ ) の姪 にあたる すなわち バリバリの良家の子女であった

14歳で子爵の息子と結婚し 一児をもうけるが 5年で離婚 東洋英和女学院に入学し その頃から 歌人 としての才能を 発揮し始める

27歳で 52歳の炭鉱王・代議士でもあった 伊藤伝衛門と再婚する 白蓮には 兄の衆議院立候補の資金援助の用 もあった 名門華族と 炭鉱成金 の結婚に 当時の新聞は " 黄金結婚 " と大いに もてはやした

伊藤は 白蓮のため 福岡市 別府 ( べふ ) に赤銅(あかがね)御殿を建て 迎え入れた
しかし 結婚は 伊藤の名誉欲 のためであり 妾も 数多く居て 夫婦生活は しっくり行ってなかったようだ

福岡の赤銅御殿は 歌人たちのサロンとなり 白蓮も 詩集 歌集 の創作にひたすら励んでいた

1918年 ある戯曲を雑誌に発表 この戯曲を上演するべく許可を取りに 東京からやって来たのが 当時「解放」の記者だった 宮崎龍介 である   < 必要な人はこの記事の最初に戻る >

その時 二人は 一目会って ビビッ! と 感じた ので あろう  ・・ !!

それからの二人の行く末は 皆さまの予想通り その後 白蓮は 東京へ出るたびに 龍介と 逢瀬 を重ね やがて 龍介の子を宿す

当時 男は何人でも 妾 を持ってよかったが 女が別の男と浮気するのは 姦通罪 という重罪であった

当然 新聞は 書き立てる 「同棲10年の夫を捨て 情人の許へ走る」  気丈な白蓮も また 「金をもって 女の人格を無視する貴方に 訣別します」 なんて 絶縁状を 公開した ものだから ・・

白蓮を非難する世論が沸騰 街宣車が走り回るなど 国をゆるがす大事件 に 発展した

応援する女性の声は小さく 結局 白蓮の華族追放 兄の議員辞職 財産没収などの措置で 何とか落ち着き 伊藤との離婚が成立 はれて 宮崎龍介との結婚(3度目)が実現したのである

宮崎龍介は その後 弁護士として活躍 戦後は 平和運動に積極的に参加 日本社会党の創立にも協力した 1966年 孫文生誕百年式典 には 周恩来から 稲天の遺児として招待され 夫婦で出席した

白蓮は 歌人として 文筆活動を 続ける一方 当時 皇太子と正田美智子の結婚に際して 皇后や旧華族と共に 強硬に反対する など マスコミを賑わす素養は 相変わらず 続いていた

1967年81歳で逝去


宮崎白蓮という人は 現代においては普通の 女性の権利 を主張した また 歌人として 卓越の仕事も した

しかし 育ちが良く 絶世の美人であったゆえ 世の注目の的となり 政治部 から 芸能社会部 へ担当記者が代わっていった感じが する


恋に生きた たくましい女性像に 同感する人は多い   10年後には NHK大河ドラマに 適





追記

10 年後 の 大河ドラマ に・ と 言ったが 5 年後 朝ドラ 「 花子とアン 」 に 白蓮は 登場した

仲間 由紀恵 の演技 が よかったね~   この ドラマを 見て 白蓮 に 関心を 持った人も 多い と 思う


もしこの 記事を 見て ドラマに 採用しよう ということ だったら NHK の プロデューサ に お礼を 申し上げたい

他 にも ドラマの モデル 私の 記事に いっぱい 出てくる ので よろしく ー

宮崎稲天  山田良政  中山忠光  中山慶子 ・ ・














山田良政

台北市にある 忠烈祠 ここは 国のために命を落とした 33万人の戦士 を 奉っている

今は 観光名所 衛兵の交代式を見ようと 大勢の観光客が 訪れる


33山田吉政02 33山田吉政03

ところで ここに奉られている唯一の日本人がいる 

33山田吉政01  山田 良政 ( やまだよしまさ )


山田良政は 1868年 弘前にて 津軽藩士の長男として生まれる 東京に出て 北海道昆布会社の上海支店に勤務した

日露戦争が始まると 中国語の堪能さを買われ 通訳として活躍し 戦争終結後も 政府から依頼され 中国国内で 列強の活動 を 調査した

そのころ 圧政に苦しむ中国の民衆を 眼のあたりにして 中国内の改革派とも親しくなり 清朝の西大后の弾圧から王照を救い 日本へ亡命させるなど 改革派への協力姿勢を明確にしていた

1899年 広州義起に失敗して日本に亡命していた孫文に 宮崎稲天の紹介で 会う
そこで 孫文の革命思想に意気投合し 同志としての支援を 約束した

1900年10月 恵州で武装蜂起を企む孫文に対し 良政は大学教授を辞任して一緒に台湾へ向かう

ここで 良政の叔父である 後藤新平 を通して 台湾総督の 児玉源太郎 と かけあい 革命軍に対して三個師団分の武器 を 提供する約束 を 取り付けたのである

革命の成功を確信した孫文は さっそく 中国本土の 同志 鄭士良 に蜂起指令を出した

しかし 丁度そのとき 日本では山県有朋内閣から伊藤博文内閣に交代し 中国への内政不干渉政策が とられた

このため 児玉源太郎の武器供与はじめ 稲天・良政らの人的支援もすべて白紙になってしまった

そうなれば 蜂起の継続は不可能と考えた 孫文は 良政に言った < ココ から 脚本 調 >


孫文  良政どの 残念ながら武器が供給できない状態では 革命の継続は無理だ 次の機会を待とう !

良政  わが国の約束が 反故になって 真に 申し訳ない 
     一刻も早く 蜂起軍に伝え 彼らの命を守らねば

孫文  現地は危険だ 同志の 鄭士良 に伝え 彼が逃げられれば それでよいのでは

良政  伝令の役は 私にやらせて下さい そして 蜂起軍を 安全に香港へ非難させるつもりです

孫文  そこまでやる必要はない 君は生きて帰ってきてくれ

良政  私には 津軽藩の 武士の血が 流れております
     自分たちのために 命をかけて戦っている同志を 見捨てては おけません
     義 をもって 撤退する軍の しんがり を 努めさせて いただきます




1900年10月22日 良政は 敗走する革命軍の最後で 奮戦する最中 追っ手の清軍に 捕らえられ 日本人と 名を明かさないまま 処刑された


後になって 孫文は 弘前の菩提寺に 碑を建て 自ら 良政を想う碑文 を 書いている


     山田良政先生は 弘前の人なり
     
     康子潤八月 革命軍恵州に起つ
     
     君身を挺して義に赴き 遂に戦死す
     
     嗚呼 其人道の犠牲 亜州の先覚たり
     
     身は湮滅すといえども 而も其の志は朽ちず















 









頭山満

宮崎稲天と並んで 孫文 にかかわりのあった 日本人

28頭山満01 28頭山満02

頭山満 (とうやまみつる) 1855年福岡藩士の三男として生まれる 母方の家を継ぐことになり 名を乙次郎から満に改名 満は近くの太宰府天満宮からとったそうだ 家は貧乏で苦労の少年時代を過ごす

1876年 秋月の乱 萩の乱が起こる 頭山は 旧福岡藩士の蜂起を画策し投獄される しかし このため西南の役には参加できず 尊敬する西郷隆盛と共に戦えなかった悔しい思いが 後の玄洋社の思想の原点になる

翌年 板垣退助が決起することを期待して 頭山は 高知にて会う しかし 板垣は武力でなく言論による戦いを主張 自由民権運動を 頭山に説明する

自由民権運動に目覚めた頭山は 政治結社 玄洋社を設立し 啓蒙に励んだ しかし 当時の党利党略に明け暮れる政治に失望し 玄洋社は思想団体として独自の道を歩くようになった

1895年 広州義起で失敗した孫文が 日本に亡命した際 宮崎稲天の紹介で 孫文に出会い 東京での生活費と活動費を援助した また住居の早稲田鶴巻町の屋敷は 犬養毅が斡旋した

1911年 辛亥革命が成功し 翌年 孫文が 前大総統として来日すると 孫文は 各地で大歓迎を受け 福岡の玄洋社や宮崎稲天の生家にも立ち寄った このとき 頭山は 袁世凱 の動向を 強く懸念していたが はたして その危惧どおり 孫文は 再び 日本に亡命を 余儀なくされたのである


28頭山満03  頭山満  犬養毅 孫文

孫文の死後 頭山の玄洋社は 日露戦争で義勇団を組織したり 日韓併合で暗躍したり 日本の侵略主義の先鋒と見られがちであったが 実情は アジア諸国が 自立した"合邦 " となることを求める 平和思想であり 政府 特に軍部の方針とは 隔たりがあった

1925年 孫文の後継者 蒋介石が 頭山を頼って日本に来た時 頭山は蒋介石を激励し その後 蒋介石は 宿願であった北伐を 成功させている

1941年 日中戦争が泥沼化していた時 頭山は東久邇宮から 蒋介石との和平会談を試みるよう依頼される 玄洋社に画策させ 蒋介石から「頭山となら会ってもよい」 との返事がきたが 東条英機から横槍が入り 会談は幻となった


頭山満は 政治家ではない 玄洋社を設立し新聞社も作ったが 役職には一切ついていない

それでいて 中華民国の記念日には日本を代表して首相とともに出席している

いまで言うと 政界を牛耳る 民間の黒幕 というべきか それにしても 度量が 桁外れに 大きい

玄洋社は 右翼団体の先祖 とも言われている しかし 自由民権運動から始まって 独立運動の支援 列強との和平工作 本当に国を憂えての活動 には 今の右翼団体とは 雲泥の差


孫文が 死ぬ間際 本当に 最後に 言った 言葉は    「 頭山さんは お元気か・・  」


























宮崎家

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熊本県荒尾市 JR荒尾駅の近くに 宮崎兄弟資料館がある ここは 宮崎稲天が生まれた家でもある

宮崎兄弟は 八男の稲天だけでなく 各々 明治の激動の舞台で活躍している

以下 資料館の展示に基づいて 宮崎兄弟の生涯を説明する



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宮崎 八郎 (1851~1877)  自由民権を勧め西南の役に散った天性の革命児

1864年父と長州征伐のため出陣の際元服 時習館に学び 明治3年上京遊学 しかし東京で感じたものは明治新政府の専制政治への怒りと独立国日本の将来への危機意識であり 6年 左院に征韓の正当性を建白し 第二の維新のリーダー的存在となる 反権力の思想を積極的行動に傾けた時 見出した中江兆民訳の「民約論」に感銘し 8年自由民権思想を掲げた植木学校を設立 あわてた県は わずか半年で閉校を命じた "西郷に天下を取らせる" ため 民権党の同士たちと西南の役で共同隊を組織し戦うが 4月6日ついに八代萩原堤で戦死 時に27歳 自由と平等を愛する兄弟の精神的原点となる


宮崎 民蔵 (1865~1928)  土地復権を生涯の使命とした人

明治18年上京して中江兆民の仏学塾に入った 程なく病のため帰郷 農村の貧しさを見て土地制度に疑問を抱き 天造物である土地の所有は人類の基本的人権のひとつではないかと気づく その後土地の平均再配分を我が使命とし 30年欧米諸国の遊説の途につく 識者と論じ4年後に帰国 35年同志と共に土地復権同士会を組織したが 43年大逆事件が起こり 国内での運動は中絶 45年 " 平均地権 " の思想を同じくする 孫文 の新生中国の誕生に土地復権実現を託して 大陸へ渡った 孫文の死の床を見舞った後も 復権運動の資金獲得に専念したが成功せず 64歳で永眠


宮崎 禰蔵 (1867~1896)  理想の国を中国革命にみた思想家

明治18年大阪・東京に遊学し 21年熊本市藪の内(現 ホテルキャッスルあたり)に住み病気療養の傍ら 民蔵 寅蔵 友人たちと哲学 社会問題などを激しく論じ その会合は"藪の内組"と呼ばれ 警戒された 禰蔵は 中国を本拠地とした革命によって理想の国を築くことを願った そのため 自ら中国人になりきり 横浜の中国商館で頭髪を剃り 名も管仲甫と称し中国の言語風俗の研究に励んだ 29年孫文一派の陳少白と出会い 宿願達成の端緒と狂喜したが 無常の病に倒れ 「大丈夫ノ真心コメシ梓弓放タデ死スルコトノクヤシキ」 の辞世を残してわずか30歳で長逝



稲天の兄貴たちも 多士済々だが その子孫にも 実は まだ ここで言いたい 人物 が いる
 
それは いずれ ・・













宮崎稲天

日清 日露戦争に勝利し 世界中から注目を浴びていた1900年ころの日本には 中国から多くの留学生が 訪れていた ある者は軍事を学び ある者は政治を学んだ

この中には 当時の清朝を批判し 改革を望む者も 少なくなかった そして 日本の民間人のなかにも 彼らの考えに共鳴し 中国の改革を支持する者がいた



26宮崎奉天01      26宮崎奉天02

                                孫文(左)と稲天 (荒尾市の生家にて)

宮崎稲天 (みやざきとうてん) も その一人である   <稲・とう は正しくはサンズイ偏 >

1871年 熊本の玉名郡荒尾村(現 荒尾市) 生まれ 東京専門学校(現 早稲田大学)卒業後 外務省の令により中国の実情調査の仕事に赴き 中国の革命家との面識も増えていった

1897年 横浜で 孫文 と知り合い 彼の革命思想に驚嘆する 以後 日本における物的・人的の支援など 積極的に協力した

1900年 山田良政らと共に 孫文の恵州蜂起援護を画策 具体的な支援を約束するが その後の日本政府の方針転換により 協力内容が ことごとく破綻 武力蜂起も その時は失敗に終わった



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興中会を立ち上げた神楽坂の中華料理店    孫文が結婚式をあげた新宿百人町の梅田邸あたり



1913年孫文は 中華民国の元総統として 国賓扱いで来日

稲天は 時の首相 桂太郎 とのパイプ役として 「日本と中華民国は協力してアジア民族の自立達成を目指す」 内容の密約を交わす など 孫文の片腕として活躍した

さらに 孫文は 稲天の生家の熊本を訪問したり 炭鉱 学校を視察したり 精力的に動き回った

しかし その後 桂太郎内閣の失脚 袁世凱による孫文の追放 により ここでの約束はすべて ご破算になってしまった


稲天は その半生を 「三十三年の夢」 に出版した また 「革命評論」 を編集し 中国革命とロシア革命の宣伝に努めた


そして 注目すべきは 彼は ”桃中軒牛右衛門” の芸名を持つ プロの浪曲師 でも あったのだ

革命を援助する大物の人格に加え 歌舞演芸 の素養も 持っている 

こういう人 私は 好きだな ・・
















袁世凱

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辛亥革命において 中心人物となったのは 孫文 でなくて この 袁世凱 (えんせいがい) ではなかろうか と 私は思う

1859年生まれの彼は 清朝の軍に身を投じ 当初は 朝鮮半島で活躍した しかし 日清戦争で大敗し 軍隊の近代化の必要性を痛感し その後 清軍の洋式化 近代化に尽くした

やがて強力な軍隊(北洋軍)の指導者となった 袁 は 清朝の命令には従わず 勝手に列強と盟約を結んだり 地方軍閥と協調したり その実力がだんだんと 目にあまってきた

辛亥革命が勃発し 革命派が優位な情勢になると 清朝は 仕方なく彼を 内閣総理大臣に任命し 反乱軍を鎮圧させようとした しかし 形勢不利を確信した彼は 命令を受け流し 革命派と裏交渉を続けながら 自分の軍隊を保全し 孫文らの 中華民国の設立を 黙認していた

その後 自分が中華民国の実権を握れる可能性がある と見るや 強権をもって 弱体化した清朝の皇帝に退位を迫り 政権を消滅させた
ここに 1912年2月 秦の始皇帝以来2000年続いた皇帝政治は ついに終了したのである

1912年3月 袁世凱は 孫文の後を継いで 中華民国 第2代臨時大総統に 就任する
彼は 軍事力を背景に 総統の権限を強化し 反対する政敵を押さえつけた 議員内閣制で国民の人気があった宋教仁を暗殺し 孫文を国外へ追放した

さらに 専制色を強める 袁世凱 は 1915年 帝政復活を宣言 自ら皇帝に即位し 国名を 中華帝国 と改めた

しかし さすがに これは 時代錯誤である と 国内外よりいっせいに非難され 一年足らずで退位 その後 彼は 失意のうちに 病死した


袁世凱は 武力を背景に 清朝の指導部 および革命派 さらに外国列強と渡り合い 最終的に 帝政を終了させ その後 選挙により 初代の 中華民国大総統に就任している(臨時ではない)
何回も失敗し 他力本願で なんとか臨時の大総統になった 孫文 とは 建国での目立ち度が 大違いである


しかし 現在 台湾 中華人民共和国とも 袁世凱は悪役であり 時には漢奸(裏切り者)とまで言われている
孫文を弾圧したこと 革命で成し遂げた共和制を帝政に戻したこと が その理由だそうだが・・

たしかに 権力を得るためには 手段を選ばない 裏切りと強権のみの行動では 当時はもちろん 後世からも評価は得られない


せめて 武士道とまでは言わないが 袁世凱に 儒教に基づく 義 の心が 少しでも あったなら

今頃 孫文に替わって 英雄であったかもしれないのに ・・・
















辛亥革命

31辛亥革命00       31辛亥革命01  

辛亥革命とは 1911年 中国で発生した革命 帝政の清朝が崩壊し 共和制の中華民国が建国された

1894年 日清戦争で日本に敗れ 1900年 義和団事件で諸外国から北京を占領されるなど 清朝の末期的状況が露呈されると 中国国内でも 改革の必要性が認識されるようになってきた

特に 日本など海外留学した知識人 および南部の漢民族などにより 満民族の清朝を倒す目的の 革命組織が各地に構築された

孫文が作った革命組織も 数ある中のひとつであった

1911年 10月 武昌で発生した武力蜂起は 地元の決起軍が勝利し これが燎原の火のごとく周囲に広がり 一ヵ月後には 全18のうち 15の省が 清朝に対して独立を宣言した

1912年 1月1日 これらの省は 話し合いの結果 仏に亡命していた孫文を 臨時大総統に選び ここに 中華民国の建国が 高らかに 宣言されたのである



   31辛亥革命06     31辛亥革命04

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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