またもや 蔡さんの 威光を借りて 警察に 案内を 強要? する (徐さん! 迫力満点・!)
あの事件で 犠牲になった 日本人家族の墓が このあたりにある と聞く



そこは この交番の 裏手一帯
しかし 蒋介石時代に 日本人の墓は すべて壊されている 予想は していたが・
その跡地を 見てみよう




墓石は ないが 確かに ここは 日本人の墓だった ! と感じる
しっかりとした 石畳と 石の階段 石のベンチは 慰霊碑でも あったのか
墓石と一緒に 撤去した 桜の後に 植えた この木の 緑
様々な 花が咲いていて 墓が 飾られているのが 何とも言えず 救い ・・






それにしても あの恐い台湾の警官 を アゴで使う 蔡さんの 人望は すごい
いちおう 愛日家 と聞いている 蔡さんは 霧社事件を どう捉えているだろうか?
これまで 聞いた筋書き だけでも 事実は 何とか 伝えられている しかし・・
その 背景は・ キーマンは 誰だったのか・ 戦った人たちは 本当は 何を考えていたのか・・


霧社事件は 更に続く
事件が 一段落した かと思われた 1931年4月25日 投降し 保留されていた マヘボ族を・
これまで 対立していて 味方藩として日本軍に協力した タウツア藩が 襲撃し
216人 もの 死亡者 が 出た (第二霧社事件)
当然 タウツア藩は 大量の首を 持ち帰り 藩社で 大宴会を 開いた という
当時 味方藩に 与えていた 銃器を なかなか 回収 しなかったし
投降者の 扱いに 苦労していた 警察が 襲撃を 唆(そそのか)した との 証言も ある
タウツア藩への 処罰は なく 逆に マヘボ藩の 土地をも 管理する ことに なった
その後 生き残りの マヘボ藩民は 近くの 川中島地域に 強制移住 させられ
そこで 警察の指導や 当局の援助により 農耕生活を 送った
国内でも この事件は 川上丈太郎らにより 国会で取り上げられ 当局の対応が 批判された
昭和天皇も 原住民に対する侮蔑をなくし 等しく臣民として扱うべし・ との お言葉
台湾総督府は 事件を契機に 同化教育と共に 適農地域への定住化と 米作の普及に力を入れるようになった
霧社ダムを築き 立ち退いて移住した地域は 穀倉地帯となり これまでの 藩の生活は はるかに 豊かになった
一方 天皇に忠誠を示した者には 日本人と区別なく 顕彰された このため
太平洋戦争では 自ら志願して 戦地に赴いた 原住民が 数多く いた
彼らは 霧社事件に関わった セデック族が多く 高砂義勇軍として 南方の山岳戦で 名を馳せた
(続く)


味方藩の兵士 第二霧社事件(タウツア藩社にて)