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G3は今日も元気

典型的な団塊オジさんの自己満足的日記・・早期退職して悠々自適なのだ・・内容は・音楽雑論、マンドリン、二胡、百名山行、花と菜園、旅あるき、原子力と放射線、別荘暮らし、熊本で介護、猫の石松など・<府中市在住> リンクフリー

天誅組の変

中山忠能の七男に 中山忠光(なかやまただみつ) がいた 

彼は19歳より宮廷に仕えていたが 父の影響か 熱心な攘夷推進者であり 孝明天皇が家茂に攘夷を命令したのになかなか実行しないことに業を煮やし 官位を返上して長州の下関戦争(外国艦船攻め)を手伝ったりしていた

これに失敗して謹慎されるが 孝明天皇が大和の国を朝征される との話を聞き 土佐の 吉村寅太郎ら とともに 先鋒で大和にて挙兵すべく 画策した


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1863年8月 天誅組(てんちゅうぐみ)と名付けた尊皇攘夷派の集団は 船で堺へ上陸し 忠光が持参した菊の紋章を盾に 付近の藩の恭順を得 大和の国に入り 幕府の代官所を襲撃し さらに反抗した高取城を攻めた

天誅組は このころ十津川郷士から徴募し1000人を超える兵力で意気揚々であった


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しかし その時 京では 会津 薩摩の画策により 宮中の攘夷派が一掃され(八月十八日の政変) 実権は佐幕派に移っていた

大和朝征は中止となり 幕府 朝廷双方より ならず者 天誅組 討伐 の令が 発せられた

もともと 天誅組の兵は 無理に集められた烏合の衆で 200人の守備隊の高取城も落とすことができず 幕府の討伐軍に対し 連戦連敗となり 旗揚げ後一ヶ月で 全滅した

主将の中山忠光のみ かろうじて逃げ延び 長州藩にかくまわれたが その後 長州の俗論派により 暗殺された


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天誅組の変は 後ろ盾を外されて失敗に終わったが 尊王攘夷派による始めての武力蜂起 ということで 明治維新への胎動であった との評価もある

朝廷と幕府双方の敵となった中山忠光の存在にもかかわらず 中山家がその後 繁栄したのは 皇子を産んだ 姉 中山慶子と 明治政府でその手腕を発揮した 中山忠能 の力が大きい

なお 中山忠光は 暗殺される直前 妾との間に娘を儲けているが この娘は 中山家で大事に育てられ 公家の嵯峨家の嫁となった

そして そこでの娘が 後に 愛新覚羅フ傑 の妻となる 嵯峨浩(さがひろ) である

さらに 寄り道したくなったが ・・ 台湾へ戻らねば
















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