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G3は今日も元気

典型的な団塊オジさんの自己満足的日記・・早期退職して悠々自適なのだ・・内容は・音楽雑論、マンドリン、二胡、百名山行、花と菜園、旅あるき、原子力と放射線、別荘暮らし、熊本で介護、猫の石松など・<府中市在住> リンクフリー

山田良政

台北市にある 忠烈祠 ここは 国のために命を落とした 33万人の戦士 を 奉っている

今は 観光名所 衛兵の交代式を見ようと 大勢の観光客が 訪れる


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ところで ここに奉られている唯一の日本人がいる 

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  山田 良政 ( やまだよしまさ )


山田良政は 1868年 弘前にて 津軽藩士の長男として生まれる 東京に出て 北海道昆布会社の上海支店に勤務した

日露戦争が始まると 中国語の堪能さを買われ 通訳として活躍し 戦争終結後も 政府から依頼され 中国国内で 列強の活動 を 調査した

そのころ 圧政に苦しむ中国の民衆を 眼のあたりにして 中国内の改革派とも親しくなり 清朝の西大后の弾圧から王照を救い 日本へ亡命させるなど 改革派への協力姿勢を明確にしていた

1899年 広州義起に失敗して日本に亡命していた孫文に 宮崎稲天の紹介で 会う
そこで 孫文の革命思想に意気投合し 同志としての支援を 約束した

1900年10月 恵州で武装蜂起を企む孫文に対し 良政は大学教授を辞任して一緒に台湾へ向かう

ここで 良政の叔父である 後藤新平 を通して 台湾総督の 児玉源太郎 と かけあい 革命軍に対して三個師団分の武器 を 提供する約束 を 取り付けたのである

革命の成功を確信した孫文は さっそく 中国本土の 同志 鄭士良 に蜂起指令を出した

しかし 丁度そのとき 日本では山県有朋内閣から伊藤博文内閣に交代し 中国への内政不干渉政策が とられた

このため 児玉源太郎の武器供与はじめ 稲天・良政らの人的支援もすべて白紙になってしまった

そうなれば 蜂起の継続は不可能と考えた 孫文は 良政に言った < ココ から 脚本 調 >


孫文  良政どの 残念ながら武器が供給できない状態では 革命の継続は無理だ 次の機会を待とう !

良政  わが国の約束が 反故になって 真に 申し訳ない 
     一刻も早く 蜂起軍に伝え 彼らの命を守らねば

孫文  現地は危険だ 同志の 鄭士良 に伝え 彼が逃げられれば それでよいのでは

良政  伝令の役は 私にやらせて下さい そして 蜂起軍を 安全に香港へ非難させるつもりです

孫文  そこまでやる必要はない 君は生きて帰ってきてくれ

良政  私には 津軽藩の 武士の血が 流れております
     自分たちのために 命をかけて戦っている同志を 見捨てては おけません
     義 をもって 撤退する軍の しんがり を 努めさせて いただきます




1900年10月22日 良政は 敗走する革命軍の最後で 奮戦する最中 追っ手の清軍に 捕らえられ 日本人と 名を明かさないまま 処刑された


後になって 孫文は 弘前の菩提寺に 碑を建て 自ら 良政を想う碑文 を 書いている


     山田良政先生は 弘前の人なり
     
     康子潤八月 革命軍恵州に起つ
     
     君身を挺して義に赴き 遂に戦死す
     
     嗚呼 其人道の犠牲 亜州の先覚たり
     
     身は湮滅すといえども 而も其の志は朽ちず











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